エリート脳外科医は契約妻を甘く溶かしてじっくり攻める

「結城さん。実は私住所が変わって……」
《え? お引越しされたんですか? じゃあ今はひとり暮らしを?》

 結城さんの反応は至極当然なものだ。
 予測していたことなのに、やっぱりいざ突っ込まれるとどぎまぎする。

「えーと……知り合いのところへ……ちょっと間借り的な感じで」
《そうなんですか? ご実家から出て自立~とかそういう?》

 私が用意していた答えを伝えると、結城さんはすぐさま質問を重ねてきた。

 彼女とはもう丸三年の付き合いだから、フランクに会話をするのもめずらしくない。
 そんな彼女と私の関係だからなにげなく聞いてきたんだと思う。もちろん私も不快にはならない。ただ、この件に関しては戸惑ってしまう。

 私はデスクの上に飾ってある腕時計を見た後、おもむろにデスクの引き出しを開ける。
 引き出しの中にしまったままの婚姻届を瞳に映し、ぽつりと返した。

「まあそんなところですかね……。新しい環境は閃きにも繋がりそうですし」

 環境はめまぐるしく変わったと思う。
 同時に、彼への想いもいっそう深く変わっていくのを感じている。

《確かにそれはありそうですね。今後の作品も楽しみにしてます》
「が、頑張ります」

 半分ごまかすために出た建前の理由で変な期待を持たせてしまい、身が引き締まる思いにさせられた。同時にプレッシャーのせいかほんの一瞬、腹部に痛みを感じる。

《では、近いうちに新住所をメールでお知らせください。社内のデータ更新しておきます》
「すみません。お手数おかけします」
《いいえ~。では、引き続き原稿の方、よろしくお願いします》

 私は「失礼します」と言って通話を終え、腹部に手を当てて息を吐く。

 なにかあるとよくお腹が痛くなる。とりあえず今はもう落ち着いたみたい。

 私は結城さんとの会話を反芻したのち、開きっぱなしの引き出しを一瞥する。

 これを出せば――。

 瞬時、自分勝手な感情が湧きあがり、慌てて理性が制止して引き出しを勢いよく閉めた。

 なにを考えたの。こんなの、ただの紙切れ。仮に受理してもらったって、形だけ繋がるだけで心は離れてる。そんなのは……虚しいし惨めになるだけ。

 そう自分に言い聞かせ、もらった腕時計にそっと指で触れた。