私は、ありがとうも、さようならも、言えなかった。だけど、それどころではなかった。




―――影君が笑った。



 そっか、笑うのか。


怯えたようにじゃなくて、ふ、と力を抜くように。そんな風に、彼が、笑ったんだ。

それが、いつかの日の授業中に見た森田君の無防備な微笑とどことなく似ている気がして、ほんの少し、戸惑った。



 戸惑っているうちに、影君の後ろ姿はだんだんと遠ざかってゆく。

私はその猫背の背中をじっと見つめていた。



 自分にとってすごく怖いことを、今、自覚している。認めないことなんて、できなかった。


 本当は、最近、手紙を書いている間にも、何度か思いそうになって、必死に、否定してきた気持ち。それが、さっき、透明じゃなくなった。



 久美ちゃんが鮫島君に向ける気持ちと同じかどうかは分からない。

だけど、私は、影君という存在に、常に微かに震えているような好意を抱いてしまっているみたいだ。

そんな資格なんてきっとないのに。