恋に焦がれて鳴く蝉よりも

 薄暗い空間に、ぽっかりと窓が浮かんでいる
ように見える展望室を見やって、蛍里は息をつ
いた。

 「そろそろ戻ろうか。俺、まだ仕事あるし」

 「うん。わたしも、着替えなきゃ」

 腕時計を見ながら歩き出した滝田の隣に、蛍里
も肩を並べる。

 「残業大変だね」と、蛍里が言うと、滝田は
「まあね」と、いつもの顔で肩を竦めたのだっ
た。






 専務と言葉を交わすことが出来たのは、それか
ら数日が経った雨の日のことだった。

 それまでも、廊下ですれ違えば挨拶を交わすこ
とはあったし、専務の方からお茶出しを頼まれる
こともあったのだけれど、やはり周囲の目も気に
なり、話すまでには至らない。

 だから、建物の入り口で偶然、空を見上げてい
る彼を見つけた時は、心が震えて仕方なかった。

 蛍里は、ひとつ呼吸を整えると、彼に近づ
いた。

 手の平を空に向け、ぽつり、ぽつり、と落ちて
くる雨粒を確かめていた専務が、蛍里に気付く。

 やんわりと笑みを浮かべた彼に、蛍里は努めて
自然に声をかけた。

 「これ、よかったら使ってください」

 自分が差していた折り畳み傘を、差し出す。
 傘の柄は落ち着いた色のチェックで、男性が
手にしていても違和感はないだろう。

 ぱさりと雨水を払って差し出したその傘を、
専務は少し躊躇いがちに受け取った。

 「僕が借りてしまっていいのかな」

 「はい。ちょっと銀行に用があって出ていた
んですけど……夕方には雨も上がるみたいです
し。気にせず使ってください」

 彼の声を間近で聞いただけで、心臓はどきど
きと鳴って煩かったけれど……そんなことは(おくび)
にも出さず、蛍里は微笑する。

 そうして、ずっと鞄に忍ばせてあった、彼の
ハンカチを取り出した。

 「それとこれ……ありがとうございました」

 もう一度洗って、アイロンがけをしたそれを
専務に渡す。自分から彼に話しかける理由は
“これ”しかなかったので、そのハンカチを手放し
てしまうのは、やはり寂しかった。

 けれど、彼は蛍里から手渡されたそれを一度
見やると、また蛍里の手に返した。

 蛍里は不思議そうな顔をして、彼を見上げた。

 「これは、あなたが持っていてください。使い
古しですけど」

 「えっ?でも……」

 使い古しというより、どちらかと言うと新品
に見えるそのハンカチを見て蛍里が首を傾げた、
その時だった。

 ざあ、と冷えた風が吹いて、蛍里の柔らかな
髪を揺らした。蛍里は咄嗟に肩を竦める。

 その蛍里を庇うように、専務の手が伸ばされ
た。そして、頬にかかった髪を、撫でるように
優しく整えた。蛍里は驚いて、彼を見上げる。

 自分に向けられている眼差しは、あの夜と
何ら変わらない。


 「愛している」と、自分に告げた時のものと、
同じだった。