恋に焦がれて鳴く蝉よりも

 ふわ、と専務の香りが鼻に届く。
 彼のハンカチが、滝田が残していった温もり
さえも拭ってくれる。

 そんなことを思って、じわ、と涙が滲みそう
になった蛍里の頭に、専務の温かな手の平が
のせられた。

 「もう、大丈夫です」

 あまりに優しいその声に、蛍里は鼻をすすっ
て頷く。

 滝田にキスをされた。
 そしてその場面を、専務に見られてしまった。
 そのことはとてもショックだけれど………
こうしてまた、専務が笑いかけてくれている
ことが、信じられないほど、嬉しい。

 「あの……」

 蛍里は涙声のまま声を発すると、専務を覗き
込んだ。

 「……どうしてここに?」

 それは素朴な疑問だった。
 
 ここは、お手洗いに繋がる通路から1本奥まっ
て、死角になっている。

 用を足しに来たのであれば、この座敷の前は
通らないはずだった。

 蛍里の疑問に専務は僅かに眉を顰め、視線を
外した。

 「あなたの後を追うように、滝田さんが座敷
を出て行くのが見えたんです。少し様子を見て
いましたが、2人とも戻ってくる気配がない。
まさか、と思ってこの通路を探していたら、
あなたの声が聴こえたので……」

 蛍里は目を見開いた。

 ずっと、避けられているとばかり思っていた。
 実際、何度か目を逸らされたこともあった。
 けれど、彼は自分を見ていてくれたのだ。
 そして、追いかけてきてくれた。
 席に戻らない自分を心配して、ここまで
探しに来てくれた。

 ここ数日、どうして彼が自分を避けていた
のかはわからないけれど………それだけで、
彼に嫌われてしまったわけではないのだと、
わかる。

 蛍里は、ハンカチで口を覆ったまま、ふふ、
と笑った。

 「助けてくださって、本当にありがとう
ございます。……でも」

 何かを思い出したように笑いながら、そこで
言葉をとぎった蛍里に、彼は黙って耳を傾けた。

 蛍里は悪戯っ子のような顔をしている。

 「専務の怒った顔、びっくりするくらい怖か
ったです」

 こんな時に、そんなことを蛍里が言うと思っ
ていなかったのだろう。

 専務は大きく目を見開き、一瞬、呆気にとら
れたような顔をした。そして、破顔する。

 初めて見るような、笑顔だった。

 「僕も、こんなに怒ったのは生まれて初めて
です」

 そう言いながら専務は蛍里に手を差し伸べる。

 蛍里はその手に引かれ、立ち上がった。
 大きくて温かな手が離れてゆく。
 あの日、自分を守ってくれた手だ、なんて、
考えてしまえば少し切なくなる。

 蛍里はついさっき、滝田に押し付けられた
柱を見た。

 「この場を去れ」と、専務に言い放たれた
時の、彼の切なげな眼差しが思い起こされる。