「これ。ずっとお返しするの忘れてて……」

 榊専務から借りた本を蛍里が返したのは、
あの日から一週間以上も経った昼休みだった。

 厳密に言うと、返すのを“忘れていた”のでは
なく、返す“タイミング”が掴めなかっただけな
のだけど……。

 それは、蛍里の一方的な言い訳に過ぎない。

 実は、こうして専務と向かい合って話をする
こと自体、久しぶりだった。その理由は、必要
以上に専務に近づかないよう、蛍里が意識して
いたからだ。

 もちろん、事務的なやり取りは今まで通り
普通にしていたのだけど、専務に仕事を頼まれ
たときは、出来るだけ早く終わらせて席に戻っ
たり、お茶出しを頼まれそうなときは、わざと
席を外したり。

 要するに、周囲の誤解を招かないように、
自分なりに気を付けていた結果、本を返すタイ
ミングが掴めなかった、というのが事の真相だ
った。

 そうして、今はフロアに誰もいない。

 結子は昨日から高熱で会社を休んでいるし、
他の社員も昼休みで全員出ている。

 蛍里は「今だ」とばかりに、デスクの引き出
しからビニール袋を引っ張り出し、専務室の
ドアをノックしたのだった。




 榊専務がデスクに座ったままビニール袋を
受け取る。

 暖かな日差しが、きらきらと彼の髪を照らし
ている。

 「遅くなってしまって、すみませんでした」

 そう、蛍里が付け加えると、専務は何かを
思い出したように、笑いながら首を振った。

 「『買ってきました』ってゆう、あなたの
猿芝居を楽しみにしていたんですけど。見られ
ませんでしたね。あの日は大丈夫でしたか?」

 「はい、お陰さまで。その本はちゃんと
“小細工”に使わせていただきました」

 くすくす、と2人で共犯者の笑みを浮かべる。

 決して、誰かに責められるような事をしてい
るわけではないのだけど、ただ、小さな秘密を
共有しているだけで、不思議と嬉しかった。

 専務がデスクの引き出しを開けて、何かの
資料を取り出した。バサリとそれをデスクに
広げる。蛍里はその資料に目を落とすと、
専務の顔を覗いた。

 「これ、もしかしてあの時のですか?」

 「そう。一緒に視察した店の資料です。
あなたのお陰で、じっくりあの店を観察する
ことが出来たし、繁盛している要件もいくつか
わかりました。どんな業界でも、“情報”は経営
の武器です。だから、これは我が社にとって
貴重な資料です」

 そう言いながら、榊専務は資料の数字を
指でなぞった。見れば、※ファサードや内観、
メニューやサービス、料理といったカテゴリー
に分けられた項目に、それぞれ50点満点の
評価がされている。蛍里は目を見開いた。




※店舗の正面や外観のこと。