大柄な男は、滝沢の言葉に「はい!」と、体育会系のように気持ちの良い返事をした。そして、そのまま部屋から出て行こうとしたところを、再び滝沢が呼び止める。
「おい」
「はい!」
大柄な男は、慌てて滝沢の元へ戻ってきた。
「そいつを連れて、服、何着か買ってこい」
滝沢は、顎でリカをしゃくって、そう命じた。
「わかりました!」
そう滝沢に返事をすると、大柄な男は、今度はリカに向き直った。
「じゃあ、行きましょう」
その声は、屈強な見た目とは裏腹に、どこか人懐っこく、丁寧だった。
リカは、無言で頷くと、男の後について、再びあの重い鉄の扉の外へと出た。
黒塗りのワンボックスカーに乗り込み、車が走り出してしばらく経った頃だった。沈黙に耐えかねたのか、それとも気まずさを感じたのか、大柄な男の方が、おずおずと口を開いた。
男の名は、小里(こざと)というらしい。
「あの……あまり目立つところには行けないので、洒落た服は無いかもしれませんが……どうか、勘弁してください」
「あ、はい……」
リカは、か細い声で答えるのが精一杯だった。
車が着いた場所は、シャッターが下りた店が並ぶ、寂れた商店街だった。その一角にある、いかにも古くからやっていそうな婦人服屋。小里は、その店の前に車を停めた。
そこで、とりあえず今日明日を凌ぐためであろう、数着の着替えと下着を選び、小里が、店主の老婆に何も言わずに分厚い封筒を渡して精算を済ませると、二人は再び同じ車に乗り込み、走り出した。
アジトへの帰り道。リカは、意を決して、小里に話しかけた。
「あの……」
「はい?」
小里は、少し驚いたように、バックミラー越しにリカを見た。
「滝沢さんは、その……何者、というか……ヤクザさん、なんですよね?」
その問いに、小里は、少しだけおかしそうに笑った。
「あぁ……滝沢さん、ご自身のことは、何も言ってないんですか?」
思っていたよりも、ずっと気さくな雰囲気。リカは、少しだけ、ほんの少しだけ、強張っていた心が解れるのを感じた。
「はい。滝沢さん、何も話してくださらないので……」
「あの方は、ん〜……」
小里は、少し言葉を選ぶように唸った。
「分かりやすく、今どきの言い方をすれば……『フリーランスの殺し屋』ですね」
「……ころし、や……!?」
言葉の意味は、理解できた。だが、現実感が、全くない。
「はい。普段は一匹狼でやられてるんですけど、今は、うちの組と専属で契約してる、という感じですかね」
フリーランスの、殺し屋。
その言葉が、リカの頭の中で、何度も反響する。
昨日まで、スーパーでバーコードを読み取っていた自分が、今、殺し屋の車に乗っている。
「あと……」
小里が、声を潜めて続けた。
「はい」
「うちの組長も、滝沢さんには、全く頭が上がらないらしいです。ははっ」
小里は、まるで他人の噂話でもするかのように、楽しそうに笑った。
やがて、車は、あのアジトの前に着いた。
「はい、着きましたよ。部屋まで、買った服、持って行きますんで」
そう言って、小里は、言葉通りに、荷物を部屋の中まで運んでくれた。
「では、これで失礼します!」
深々とお辞儀をすると、小里は、嵐のように部屋を出て行った。
一人残された部屋。滝沢は、ベッドに腰掛け、スマートフォンを見ながら、ぽつりと言った。
「お前、臭うぞ」
その、あまりにも直接的で、無神経な言葉。
だが、リカは、その言葉で、ハッと我に返った。
それどころではなく、完全に忘れていた。そう言われてみれば、昨日のバイト前にシャワーを浴びてから、一度も体を洗っていない。
考えれば、背後から襲われ、血まみれの死体を目の前で見て、訳もわからず拉致され、次の日には、現職大臣が、自分の父親の殺しを依頼する現場に立ち会わされたのだ。
この、たった一日で。
一体、何回、冷や汗をかき、それが乾いただろうか。
それどころではなかった、とはいえ、急に、全身が汗と汚れでベタついているような気がして、少し恥ずかしくなった。
リカは、意を決して、滝沢に声をかける。
「……シャワーを、お借りします」
そう言うと、先ほど買った服の中から、部屋着になりそうなスウェットと下着を手に取り、バスルームへと向かった。
温かいシャワーが、冷え切った体を、少しずつ溶かしていく。
不思議な感覚だった。
結婚して7年間、浮気もしたことがない。ごく平凡な主婦で、ごく平凡な毎日を過ごしていた。
それが今、自分を拉致した、殺し屋の男の部屋で、シャワーを浴びている。
そこに、やましい感情は一切ない。仕方がない状況だ。だが、この、あまりにも現実離れした状況そのものが、リカの心を、静かに、しかし、確実に、何か別のものへと変えていこうとしていた。



