第三章:獣たちの饗宴
レンガ造りのビルの中、鉄の扉の先は、まるで異世界だった。
高級ホテルのスイートルームを思わせる、広々としたリビング。大きな窓の外には、夜の海が静かに広がっている。
環境大臣、大野勇次郎は、その部屋の中央に置かれた、巨大な革張りのソファに、すでに腰を下ろしていた。
「そちらに、お座りください」
勇次郎が、低い声で、向かいのソファを指し示す。その隣には、秘書らしき男が、石像のように微動だにせず立っていた。
滝沢は、無言で、そのソファに深く腰を下ろす。
勇次郎の視線が、滝沢の後ろに立つリカへと移った。
「そちらの方は?」
「お前の、それと一緒だ」
滝沢は、顎で、勇次郎の隣に立つ秘書をしゃくった。
その無礼な物言いに、秘書の眉がピクリと動く。だが、勇次郎は、表情一つ変えずに、静かに頷いた。
「……なるほど。では、お互い、『秘書』は残して、他の方は外していただきたい」
その一言で、部屋の隅に控えていた、屈強な男たちが、音もなくリビングから出ていく。
部屋には、四人だけが残された。重々しい沈黙が、場を支配する。
やがて、勇次郎が口を開いた。
「本日は、わざわざお時間を作っていただき……」
「で、誰を殺(や)って欲しい?」
滝沢は、その丁寧な挨拶を、まるで興味がないとでも言うように、無遠慮に遮った。
(殺して、ほしい……?)
リカの頭は、混乱で飽和していた。
(政治家と、ヤクザを殺す男……そして、私は、この人の『秘書』……?一体、何がどうなってるの……?)
勇次郎は、滝沢の無礼な態度にも動じず、懐から一枚の写真を取り出すと、静かに、ガラステーブルの上に置いた。
その写真に写っている人物を見て、リカは、息を呑んだ。全身の血が、急速に引いていくのを感じる。
間違いない。何度も、何度も、ニュースで見た顔。
大野勇(おおの いさむ)。元内閣総理大臣。
そして……今、目の前にいる、大野勇次郎の、実の父親だ。
勇次郎の秘書が、無言で、テーブルの上に、重厚なアタッシュケースを置く。パチン、という音を立てて蓋を開けると、滝沢の方へと向けた。
中には、隙間なく詰められた、一万円の札束が鎮座している。
「まずは、ご確認を」
「いや、いい」
滝沢は、その金額を一瞥もせずに、短く答えた。
「前金で、五千万。用意させていただきました。成功報酬で、もう五千万。……いかがでしょうか?」
「……元首相の命も、安いもんだな」
滝沢は、吐き捨てるように言った。
「では、いくらなら……?」
「いや、いい。その条件で受けよう。……ところで、俺もお前に、一つ頼みがある」
「……何でしょう?」
勇次郎の目に、わずかに警戒の色が浮かぶ。
滝沢は、黙って、隣に立つリカを指差した。
「こいつを、消してくれ」
その言葉が、リカの鼓膜を突き刺した。
(消して……くれ……?)
頭が、真っ白になる。必死に、冷静な振りを装う。だが、背中を、一筋の冷たい汗が、ゆっくりと伝っていく感触があった。
滝沢は、内ポケットから、リカの運転免許証を取り出すと、写真の上に、そっと置いた。
「それと……こいつの、全く新しい戸籍をくれ」
そう言うと、滝沢は、先ほどのアタッシュケースを、こともなげに、勇次郎の方へと押し返した。
「報酬は、その五千万でいい」
自分の命を消すための依頼。そして、自分に新しい戸籍を与えるための、報酬。
矛盾した二つの事実が、リカの頭の中で、渦を巻いていた。
勇次郎は、少しの間、何かを考えるように目を伏せていたが、やがて、顔を上げた。
「……分かりました。その条件、お受けしましょう」
その言葉を聞くと、滝沢は、スッと、音もなくソファから立ち上がり、リビングを後にした。
呆然と立ち尽くすリカに、勇次郎の冷たい視線が注がれる。
それに気づいたリカは、ハッとして、我に返った。
「し、失礼します!」
深々とお辞儀をすると、足早にリビングを出て、滝沢の後を追った。
来た時と同じ、黒いワンボックスカーに乗り込み、来た道を、ひたすらと走り続けた。
アジトに戻るなり、滝沢は、冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、ソファに深く体を沈め、タバコに火をつけた。
その横顔は、何かを、深く、深く、考えているようだった。
リカもまた、考えていた。
(私を、消す……)
(結局、私は、殺されるの……?)
(いいや、でも、それなら、どうして新しい戸籍なんて……?なぜ、そのために、五千万という大金を……?)
全く、分からない。
滝沢に、直接聞こうとも考えた。だが、車に乗ってから今に至るまで、彼の周りには、他者を寄せ付けない、張り詰めた空気が漂っていて、どうしても、声をかけることができなかった。
コン、コン。
その時、部屋のドアがノックされた。
「入れ!」
滝沢が、低い声で言う。
入ってきたのは、まだ若い、大柄な男だった。両手には、スーパーの買い物袋らしきものが、パンパンに膨らんで、いくつもぶら下がっている。
「その辺に、置いとけ」
滝沢が、顎でテーブルを指し示す。
その、あまりにも日常的な光景が、この異常な状況の中で、ひどく、歪んで見えた。



