滝沢の後ろを、ただ無心で歩く。
ぬかるんだ地面を踏みしめる、自分の頼りない足音と、その前を歩く男の、重く確かな足音だけが、深夜の静寂に響いていた。
やがて、闇の中に、ぼんやりと一つの建物が浮かび上がってきた。
レンガ造りの、小さなビル。五階建てほどだろうか。窓には明かり一つなく、まるで巨大な墓石のように、不気味に佇んでいる。
今のリカには、それをはっきりと確認する余裕すらなかった。恐怖で視界は狭まり、ただ、前を歩く男の広い背中だけを、見つめることしかできない。
ビルの入り口に、二つの人影が座り込んでいるのが見えた。
私たちが近づくと、その二人は、まるで弾かれたように立ち上がり、滝沢に向かって、深々と頭を下げた。
「ご苦労様です!」
その、場違いなほどに張りのある声に、リカの体がビクッと跳ねる。だが、滝沢は、まるで道端の石ころでも見るかのように、その二人には一瞥もくれず、無言で間を通り抜けて、ビルの中へと入っていった。
中に入ってすぐ、目の前にあったのは、古びたエレベーターと、その隣にある、頑丈そうな鉄の扉だった。
滝沢は、エレベーターには目もくれず、その鉄の扉を開ける。中は、コンクリート打ちっぱなしの、殺風景な非常階段だった。
そのまま、下へ、下へと降りていく。
地下一階だろうか。滝沢は、再び同じような鉄の扉を開けると、顎で中をしゃくった。
「入れ」
リカは、言われるがまま、先にその部屋へと足を踏み入れる。遅れて入ってきた滝沢が、背後で重い扉を閉めた。ガチャン、という金属音が、まるで世界の終わりを告げるかのように、響き渡った。
そこは、意外なほど広々とした空間だった。リビングだろうか。部屋の中央には、大きな革張りのソファが二つ、向かい合うように置かれ、その間には、重厚なガラステーブルが鎮座している。
滝沢は、そのソファの一つに、どさりと深く腰を下ろすと、慣れた手つきでタバコに火をつけた。
「持ってる物、このテーブルの上に全部出せ!」
ドスの効いた声が、部屋に響く。
リカは、まだ微かに震える手で、自分のハンドバッグの中身を、テーブルの上に出した。化粧ポーチ、ハンカチ、そして、スマートフォンと財布。
滝沢は、真っ先にリカのスマートフォンを取り上げると、無表情のまま電源を切り、自分のポケットへと無造作に突っ込む。
次に、財布を開け、中からリカの運転免許証を取り出すと、まるで獲物を品定めするかのように、その顔写真を睨みつけた。
「……結城、リカ……」
ぽつりと、自分の名前を呟かれる。
少しの沈黙の後、滝沢は、免許証からリカへと視線を移した。
「で、お前、どうする?」
その問いの意味が、リカには分からなかった。ただ、顔は蒼白になり、頭の中は混乱で真っ白になる。
「た……助けて……ください……」
それが、今のリカが、かろうじて絞り出せる、精一杯の言葉だった。
また、少しの間が空く。タバコの煙だけが、ゆらりと天井へと昇っていく。
やがて、滝沢が、静かに口を開いた。
「まだ、死にたくないか?」
リカは、その問いに、必死に、何度も、こくり、こくりと頷いた。
冷や汗が、背中を伝う。恐怖で、心臓が張り裂けそうだった。
(殺されないなら、もう、何でもいい……)
(今は、従うしかない。そうすれば、きっと、どこかで逃げるチャンスがあるかもしれない……)
リカは、そう思った。そう、思うしかなかった。
「俺の命令には、絶対に従ってもらう」
滝沢の声は、どこまでも冷たい。
「どんな些細なことでもだ。もし、出来なかったときは……その時は、死んでもらう」
その言葉を聞き、リカは、恐る恐る、ゆっくりと顔を上げた。
そして、初めて、この男の顔を、正面から見た。
その瞳には、何の感情も浮かんでいなかった。ただ、底なしの闇だけが、そこにあった。