どれくらいの時間が、経ったのだろうか。
体感では、もう一時間以上も走り続けているように思えた。実際には、おそらく30分ほどだったのかもしれない。
窓の外を流れていくのは、見慣れた街の灯りではなく、ただひたすらに、黒く塗りつぶされた闇だけだった。
まだ、状況を理解できない。いや、理解することを、脳が拒絶していた。
隣に座るこの男は誰なのか。さっき、道端に倒れていた、あの人は。そして、何故、私がこんな目に遭わなければならないのか。
思考は、答えのない問いをぐるぐると巡るだけで、現実味を帯びてこない。まるで、質の悪いサスペンス映画のワンシーンに、無理やり放り込まれたかのようだった。
硬直したリカの身体は、車の暖房が効いているにも関わらず、芯から冷え切っていた。段々と、寒気が骨の髄まで染み渡ってくる。
(……言葉が、見つからない)
そもそも、何を言えばいいというのだろう。
『私は誰でしょう?』『あなたは誰ですか?』『あの人は、死んでいるのですか?』
どの問いも、口にすれば、この悪夢が現実だと認めてしまうことになる。それが、何よりも恐ろしかった。
リカは、ただ俯くことしかできない。
ましてや、運転席に座る男の横顔を、盗み見ることさえも。その視線に気づかれたら、今度こそ、本当に殺されてしまうかもしれない。
信号待ちで、車が停まる。
一瞬、脳裏に「逃げろ」という命令が閃いた。ドアを開けて、飛び降りる。
だが、その考えはすぐに、絶望にかき消された。この、大きなピックアップトラックは、普通の乗用車よりも車高が遥かに高い。飛び降りたところで、足を挫くのが関の山だ。それに、もし無事に着地できたとしても、あの男から逃げ切れる自信など、微塵もなかった。
さっき、口を塞がれた時の、あの巨大な左手。あの、鋼鉄のような握力。
並大抵の男ではないことは、嫌というほど、リカの体に刻み込まれていた。
いつの間にか、涙は止まっていた。いや、恐怖が涙腺の働きさえも麻痺させてしまったのかもしれない。身体の震えだけが、まだ微かに残っている。
その時だった。
「降りろ」
威圧感に満ちた、低い声。
少しだけ落ち着きを取り戻しかけていたリカの背筋を、その一言が、再び凍りつかせた。
リカは、小さくこくりと頷くと、震える手でドアを開け、車外に出る。
深夜の冷気が、刃物のように肌を刺した。寒さが、一段と身体を硬直させる。
ピンと張り詰めた、どこまでも澄んだ空気。
ここは、私の知っている場所ではない。
真っ暗で、周囲の景色は見渡せない。
でも、東京の喧騒から遠く離れた、郊外のどこかに来たことは、一瞬で理解できた。
アスファルトで舗装されていない道には、雨が降った後のような、ぬかるみが広がっている。
逃げ出したい。今すぐにでも、この闇の中へ駆け出して、助けを求めたい。
だが、その気持ちを、背後から突き刺さる、あの猛禽類のような視線が許さない。
リカは、溢れ出しそうになる悲鳴を飲み込み、ぬかるみに足を取られないよう、慎重に、男―――滝沢の後をついて、歩き出した。



