二日後・個室料亭
静かな和室に、二人の男女の声だけが、低く響いていた。
「明日、だね。あの、殺し屋さんに会うの」
綾が、楽しそうに、そして、どこか、うっとりとした表情で言う。
「うん……。でも、『俺が納得するだけの額を、前金で』って言ってたけど……一体、どれくらいなんだろう?」
洋太の声には、隠しきれない不安が滲んでいた。
「多めに持って行けば、いいんじゃない?」
綾は、まるで、デパートの買い物にでも行くかのような、軽い口調で言う。
「多めって……どのくらい?」
「うーん……とりあえず、2000万くらい?」
「にっ!にせんまん!?」
洋太は、思わず、声を裏返した。それは、彼が、何年も、真面目に働いて、やっと手にできるかどうか、という金額だ。
「私たちの、輝かしい未来のためなら、そんなに高くないでしょ?」
綾は、悪びれもせずに、にっこりと微笑む。
「それに、『地獄の沙汰も金次第』って言うじゃない?中途半端な額を持って行って、断られるよりは、ずっといいわよ」
「う、うん……」
「もし、それでも『少ない』って言われたら、『成功報酬は、前金の二倍出します』って、そう言ってみて」
「『言ってみて』って……明日、俺、一人で行くの?」
「当たり前でしょー」
綾は、心底、呆れたように言った。
「ここまで、私がお膳立てして、お金まで出してあげるんだから。最後の、契約書にサインするくらいのことは、洋太も、ちょっとは頑張りなさいよ」
「……わかった」
「じゃあ、決まりね!私たちの、明るい未来のために、前祝い!」
「カンパーイ!」
綾は、上機嫌に、グラスを掲げた。
洋太は、その、あまりにも無邪気な笑顔を前に、ただ、力なく、グラスを合わせることしか、できなかった。
翌日・地下のバー
洋太は、一人で、あの、隠れ家のようなバーの、重い扉を開けた。
店主は、カウンターを磨きながら、洋太の姿を認めると、静かに、一礼した。
「……VIPルームにて、お待ちです」
「あ、はい……」
洋太は、ゴクリと、唾を飲み込んだ。
そして、あの、殺風景なVIPルームへと、足を踏み入れる。
やはり、というべきか。当然、というべきか。
ソファの一脚に、一人の男が、深く、腰掛けていた。
部屋の薄暗さの中でも、その男が放つ、息が苦しくなるような、圧倒的なオーラ。それは、間違いなく、光の当たる世界に住む人間のそれではない。闇の住人。
男は、タバコを、美味そうに、燻らせていた。
「どうも、はじめ……」
洋太の、その、か細い挨拶を、遮るように、男――滝沢は、言った。
「挨拶はいい。座れ」
「は、はい……」
洋太は、言われるがまま、対面のソファに、浅く、腰を下ろす。
「で、誰を消して欲しい?」
滝沢は、単刀直入に、そう尋ねた。
「あ、つ、妻、です……」
その言葉を口にした瞬間、洋太は、自分が、もう、後戻りのできない場所に立っているのだと、実感した。
滝沢の目が、ギロリ、と、鋭く光る。
「どこの、誰かを聞いている」
「あ、はい!これが、写真で……これが、住所と……」
洋太は、震える手で、用意してきた資料を、テーブルの上に置いた。
「……なるほどな。で、理由は?」
洋太は、綾とのこと、そして会社のことの全てを、話した。
「……前金は、いくら持ってきた?」
洋太は、足元に置いていた、重いアタッシュケースを開け、滝沢に見せる。
中には、隙間なく詰められた、2000万円の札束。
「……お前の、連絡先を教えろ」
洋太は、電話番号を書いたメモを、滝沢に渡す。
「また、連絡する」
滝沢は、それだけを言うと、アタッシュケースを、こともなげに掴んで立ち上がり、そのまま、VIPルームから出て行ってしまった。
残されたのは、洋太一人。
滝沢が放っていた、あまりの殺気に、しばらく、動くことができなかった。
やがて、彼は、よろよろと立ち上がり、VIPルームを出る。
カウンター席に、一つだけ、グラスが置かれていた。
中には、あの、血のように赤いカクテル。
「……お客様への、サービスです」
店主が、静かに言った。
少し、放心状態のまま、洋太は、そのカウンター席に座る。
「……どうも」
そう言って、カクテルを、一気に、呷った。
「……もう、後戻りは、できませんよ?」
店主が、静かに、そして、重く、そう告げた。
「……」
洋太は、何も答えられなかった。
彼は、空になったグラスを置くと、一度も、振り返ることなく、バーを後にする。
自分の魂を、悪魔に売り渡した、その代償の重さに、まだ、気づかないまま。