第九章:血色の契約


洋太と綾が訪れたのは、繁華街の、古びたビルの地下にある、隠れ家のようなバーだった。
重厚な木の扉を開けると、そこは、外の喧騒が嘘のような、静寂に包まれた空間。照明は、最低限まで落とされ、長いカウンターと、いくつかのボックス席が、薄暗い闇の中に、ぼんやりと浮かび上がっている。
客は、一人もいない。
カウンター席に、二人で腰を下ろす。
目の前に立った、バーの店主は、白髪をオールバックにした、品の良い初老の男だった。彼は、無言で、深々とお辞儀をした。
「お飲み物は、何にいたしましょうか?」
穏やかで、しかし、感情の読めない声で、店主が尋ねる。
「……変わったカクテル、いただけるかしら」
綾が、挑むように言った。
店主は、一瞬だけ、その動きを止め、綾の目を、じっと見つめ返した。
「……でしたら、季節のカクテルなどは、いかがでしょう?」
「血の味がするカクテル。それをお願い」
綾は、薄く、微笑んだ。
「……承知いたしました。では、VIPルームへ、どうぞ」
店主は、再び、深々とお辞儀をした。
綾は、洋太の肩に、そっと手を置く。
「VIPルームには、この人が行くわ」
「え?お、俺が?」
洋太は、驚いて、声を上げた。
「ここまで、お膳立てしてあげたでしょ?あとは、自分で、ケリをつけてきなさい。……もちろん、お金は、私が出してあげるから」
綾は、洋太の耳元で、そう囁いた。その声は、悪魔の誘惑のように、甘く、そして、抗うことを許さない響きを持っていた。
「……わかった」
洋太は、そう、答えるしかなかった。
洋太は、店主の案内に従い、バーの奥にある、VIPルームへと入る。
そこは、何の装飾もない、殺風景な部屋だった。テーブルが一つと、それを挟んで、二脚の重厚なソファ。そして、テーブルの上には、時代錯誤な、黒い電話機が、一つだけ、置かれている。
洋太は、とりあえず、そのソファに、深く、腰を下ろした。
心臓が、大きく、そして、不規則に、脈打っている。
VIPルームに、先ほどの店主が入ってきた。
「受話器を上げると、繋がりますので……」
店主は、テーブルの上に、一杯の水を置くと、音もなく、部屋から出て行った。
洋太は、しばらくの間、目の前の黒電話を、ただ、見つめていた。
(本当に、やるのか……?今ならまだ、引き返せる……)
だが、脳裏に、綾の、あの、期待に満ちた顔が浮かぶ。
洋太は、ゴクリ、と、渇いた喉で、唾を飲み込んだ。
そして、震える手で、その、重い受話器を、上げた。
数回の、長い、長い、コールの後。
電話が、繋がった。
向こう側は、無言だった。
「……あの……」
洋太が、何かを言おうとした、その時だった。
『誰を、殺して欲しい?』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、地を這うような、低く、そして、一切の感情が乗っていない、男の声だった。
「えっ!?」
『……なんだ?依頼じゃないのか?』
「あ……あ、い、依頼です!」
洋太は、慌てて、そう答えた。
『じゃあ、三日後、そこに、夜9時。俺が、納得する金額の前金を持って来い』
「プツッ!……ツー、ツー、ツー……」
男は、それだけを言うと、一方的に、電話を切った。
洋太は、受話器を、静かに、置いた。そして、VIPルームを出る。
カウンター席では、綾が、優雅に、足を組んで、彼を待っていた。
「どうだった?」
洋太が、返事をしようとした、その時だった。
バーの店主が、洋太の前に、すっと手を差し出し、言った。
「三日後、この店は、貸し切りとなっております。どうか、時間通りに、お越しください」
「わ、わかりました……」
洋太は、綾の隣のカウンター席に、崩れるように、座った。
すると、バーの店主は、洋太と綾の前に、二つのカクテルを、そっと置いた。
グラスの中の液体は、まるで、本物の血のように、深く、そして、鮮やかな、赤色をしていた。
「お客様への、ささやかなサービスです。『血の味のカクテル』でございます」
「……綺麗」
綾は、その、あまりに美しい赤色に、うっとりと、見とれている。
「では、ごゆっくり……」
店主は、そう言うと、静かに、その場を去った。
「……本当に、血の味、なのかな」
「まさか」
そう言って、綾は、その赤いカクテルに、そっと、口を付けた。
「……あ、美味しい。……ザクロ、ね」
そして、二人は、その、血のように赤いカクテルを、一気に飲み干し、静かに、バーを後にした。
契約は、成立した。
もう、誰も、この運命を、止めることはできない。