第八章:始まりの過ち
【回想 ― 四年前】
望月𝑪𝑶𝑴𝑷𝑨𝑵𝒀本社・オフィス
時計の針が、夜の20時を指していた。
オフィスには、もう数えるほどの人間しか残っていない。静かなフロアに、キーボードを叩く音だけが響いていた。
「もう、こんな時間か。早く帰らないと、リカが待ってるな……」
結城洋太は、そう呟きながら、自分のデスクの上の資料を、慌ててファイルにまとめていく。
その時だった。
「結城係長!」
背後から、甘く、しかし、はっきりと通る声がした。
望月綾だった。
有名私立大学を卒業し、この春、社会人になったばかりの一年生。そして何より、この望月ホールディングスの創業者一族であり、現社長の一人娘。その、誰もが羨むような経歴を持つ彼女が、なぜか、洋太のいる部署に配属されていた。
「あぁ、綾ちゃん。あんまり残業しちゃダメだよ。早く帰らないと」
洋太は、上司として、優しく声をかける。
「とっくにタイムカードは押しましたよぉ」
綾は、いたずらっぽく笑う。
「じゃあ、いいけどさ。社長の耳に入ったら、俺のクビが飛んじゃうからな。あはは」
「あの、結城係長」
綾が、改まった口調で、洋太の顔を覗き込む。
「ん?どうしたの?」
「少し、係長に、ご相談したいことがあって……」
その瞳は、真剣だった。
「あぁ、そうなの?ごめん、ちょっと、今日は時間がなくてさ。明日でも、いいかな?」
「でしたら、明日、お仕事が終わったら、ご飯に行きませんか?ゆっくりと、ご相談したいので」
「まぁ、明日なら、特に大きな会議もないし……行けるかな」
部下からの、真剣な相談だ。無下にもできない。洋太は、そう判断した。
「じゃあ、明日!楽しみにしています!お疲れ様でした!」
「はい、お疲れ様!」
綾は、嬉しそうに手を振ると、颯爽とオフィスから去って行った。
洋太は、その背中を見送り、再び、急いで帰宅の準備を始めた。
翌日の18時
洋太が、今日の仕事を終え、デスクに座っていると、ひょこり、と、綾が、その可愛らしい顔を横から覗き込んできた。
「結城係長。覚えてますか?」
「おぉー!覚えてるよ。もちろん。ちょっと、会社の入り口で待ってて。すぐに、片付けて行くから」
「はーい」
綾は、嬉しそうに返事をすると、先に部屋を出て行った。
洋太は、ノートパソコンを閉じ、カバンを持つと、彼女を追って、会社の入り口へと向かう。
「綾ちゃん!ごめん、待たせたね。何か、食べたいものとか、ある?」
「お酒!」
綾は、屈託なく笑った。
「はは、お酒はご飯じゃないけどね。まあ、とりあえず、行こうか」
結局、二人は、駅前の、少し落ち着いた雰囲気の居酒屋へと向かうことになった。
お座敷の個室に通され、酒と、いくつかのつまみを頼みながら、二人は、他愛もない話をした。
「それで?相談って、言ってたけど。どうしたの?」
洋太が、本題を切り出す。
「んー、お酒、乾杯してからにしましょ」
綾は、そう言って、悪戯っぽく笑う。
「あ、あぁ、そうだね。じゃあ、今週もお疲れ様ってことで、乾杯!」
「お疲れ様でーす!」
二人は、ビールジョッキを、軽く合わせた。
そして、綾は、そのビールを、一気に半分ほど飲み干すと、まっすぐに、洋太の目を見た。
「結城係長」
「うん?」
「あたし、係長のことが、好きなんです!」
「……は?」
洋太は、自分の耳を疑った。
「『は?』じゃなくて!好きだから、私と、付き合ってください!」
綾は、今度は、怒鳴るような、大きな声で言った。
「ちょっ、ちょっと!声、デカいって!」
洋太は、慌てて、人差し指を口のところにやり、シーッ、と、彼女を制する。
「係長が、『は?』とか、変なこと言うからでしょ!」
「いやいや……だって、俺、結婚してるじゃない。綾ちゃんも、知ってるよね?」
「だから、何なんですかぁ?」
綾は、不満そうに、唇を尖らせる。
「あのね、もし、万が一、付き合ったとしてもだよ?それが会社にバレたら、俺は、クビなんだよ?クビ!」
「バレなきゃ、いいじゃないですか!」
「そんな、簡単に言うけど……」
洋太は、困った顔をしながら、頭を掻いた。
「私、こう見えても、けっこうモテるんですよ?今、ここでフッたら、後悔しますよ?」
綾は、確かに、スタイルも、容姿も、ずば抜けて良かった。社内でも、彼女に言い寄る男は、後を絶たない。
「いや、それは、分かるけどね。問題は、そこじゃなくて……」
それから、綾は、やけになったように、どんどん、お酒のおかわりをしていく。
「ちょっと、飲みすぎじゃない?」
「もう、フラれそうだから、飲まなきゃ、やってらんないですよ〜!」
綾は、ジョッキを片手に、急に、立ち上がった。
「え、どうしたの?」
綾は、座敷のテーブルを、するりと回り込み、洋太の隣に、どさりと座った。
「さぁ!飲みましょ〜、係長!」
そういうと、綾は、その柔らかい胸を、洋太の腕に、ぐりぐりと押し付け、顔を、すぐそこまで近づけてきた。
洋太の横顔を、熱い吐息がかかるほどの距離で、じっと、見つめる綾。
洋太は、その、あまりに大胆な行動に、困惑の表情を浮かべるしかなかった。
「ちょっ、ちょっと、綾ちゃん、離れようか」
そう言われた綾は、ふふっ、と、意味ありげに微笑んだ。
そして、その手は、洋太の太ももを、ゆっくりと撫で上げ、やがて、そのズボンの上から、彼の、熱を持ち始めた、男性の証に、そっと、触れた。
「ちょっ!ちょっと!綾ちゃん!」
洋太の体が、ビクッと跳ねる。
「あ〜!係長ぉー!硬くなってるぅー」
綾は、そういうと、今度は、その存在を、確かめるように、ズボンの上から、強く、握りしめた。
「行きましょ!係長!」
「え?ど、どこに……?」
もはや、洋太に、理性は、残っていなかった。
綾は、洋太の手を、強く引っ張ると、伝票を掴んで、会計へと向かう。
そして、さっさと、自分のカードで支払いを済ませると、洋太を、夜の街へと、連れ出した。
その夜、二人が、家に帰ることはなかった。



