リカの唇が、滝沢の唇から離れる。
その瞬間、リカの顔に、痛みが走った。
「イタッ!!」
「……当たり前だろうが。お前の唇、切れてるんだぞ。バカか、お前は」
滝沢は、そう吐き捨てるように言うと、リカの体を、無造作に押しのけて、ソファから立ち上がろうとする。
だが、リカは、その立ち上がろうとする滝沢の体に、必死に、抱きついた。
「……何なんだ、一体。お前は」
滝沢の、苛立ちを隠せない声。
「ずっと……ずっと、下が……」
「あ?」
「ずっと、体の、下が、熱いんです!」
リカは、叫ぶように言った。自分でも、何を言っているのか、分からない。ただ、この、体に宿った、生まれて初めての熱を、どうすることもできなかった。
「……何、言ってんだ。お前」
「抱いて……ください……」
その、あまりに突拍子もない言葉に、滝沢は、一瞬、動きを止めた。
そして、心底、呆れたように、ため息をつく。
「お前、自分の顔、まだ見てないだろ。鏡で、見てこい」
「え?」
そう言えば、顔が痛くて、あちこちにガーゼのようなものが貼り付けられている感触はあったが、まだ、自分の顔がどうなっているのか、見ていなかった。
リカは、滝沢の腕から、力なく手を離すと、おぼつかない足取りで、バスルームへと向かった。
そして、洗面所の鏡に映る、自分の顔を見る。
「……うそっ……。ミイラ、じゃん……」
そこにいたのは、結城リカではなかった。
顔中に、痛々しく、白いガーゼが貼り付けられ、その所々には、血が滲んでいる。まるで、事故にでも遭ったかのような、見るも無残な姿だった。
リカが、呆然としながらリビングに戻ると、滝沢は、もう、ベッドの中で、寝る体勢になっていた。
「見てきたか」
「……はい。酷いですね、私の顔」
「安静にしてろ。顔がひん曲がっても、俺は知らねぇぞ」
「……私、決めました」
リカは、静かに、しかし、力強く言った。
「ん?何をだ?」
「五日後からの、生き方です」
「……そうか」
滝沢は、それ以上、何も聞かなかった。
「滝沢さん」
「ん?」
「もう、私の好きにして、いいんですよね?」
「……あぁ。その顔で、外に行くのは、勧めないがな」
その言葉を聞くと、リカは、おもむろに、自分が着ていたスウェットを、脱ぎ始めた。
「この顔が治るまでは、外には行きませんよ」
「……そうしろ」
リカは、滝沢が寝ているベッドの中へと、静かに入り込んだ。
そして、滝沢が履いているスウェットパンツを、力いっぱい、引きずり下ろす。
「お前っ!何をやっ……」
リカは、滝沢の、驚愕の声を、無視した。
そして、その唇で、彼の、怒りと熱を帯びた、猛々しい男性の証を、受け止めた。
それは、もはや、愛や恋といった、生ぬるい感情ではなかった。
もっと、絶望的で、刹那的で、そして、どうしようもなく、人間的な行為だった。
二つの孤独な魂が、互いの存在を確かめ合うかのように、激しく、そして、静かに、混じり合っていく。
この、汚れた世界の片隅で、古い自分が、完全に、壊れていく音がした。
やがて、滝沢は、一人、ソファに移動し、タバコに火をつけた。
行為が終わった後、リカは、ベッドの上で、うつ伏せのまま、微かに、痙攣していた。
「……滝沢さん」
「ん?」
「……初めて、なんです」
「……何がだ?」
「下が、熱くなったのも……下から、溢れるのも……イくのも……全部」
「……そりゃ、良かった……のか?」
滝沢は、どう答えていいか、分からないようだった。
「はい。……天にも昇る気持ち、というのが……ちょっとだけ、わかった気が、しました」
続けて、リカが言う。
「私……生まれ変わったんですね。……『椎名璃夏』に」
「それは、お前次第だろ」
「そうですね。五日後、私は、完全に、生まれ変わろうと、思います」
「……あぁ」
「滝沢さん。私が、生まれ変わるために、必要なこと。……手伝って、いただけませんか?」
「……何をだ?」
リカは、ゆっくりと、体を起こした。
その瞳には、もう、昨日までの、怯えた主婦の面影は、どこにもなかった。
ただ、静かに、そして、底なしに、燃え盛る、復讐の炎だけが、そこにあった。
「私、結城洋太を、殺します」



