第二章:血染めの沈黙
男、滝沢は、リカの恐怖など意にも介さず、悠然と細道を彼女の方へ向かって歩いて来る。
街灯のない暗闇の中、男の顔はよく見えない。だが、その体躯が、確かな威圧感を持ってリカに迫ってくるのがわかる。
心臓が早鐘のように打ち、喉がカラカラに渇く。本能が警鐘を鳴らしていた。この男は、危険だ。
何故、そう感じるのか。
それは、男の目が、まるで獲物を定める猛禽類のようだったからだ。
薄暗い中でも、その鋭い眼光だけが、ギラギラと光を放ち、リカを射抜くように睨みつけている。隼か、鷹か。いずれにせよ、抵抗など無意味だと悟らせる、圧倒的な力を持った捕食者の目だった。
(きっと、気のせいだわ……)
恐怖で竦みそうになる足を、必死に叱咤する。
(こっちなんて、見てない。たまたま、目が合っただけ。大丈夫、大丈夫……)
そう何度も心の中で繰り返しながら、リカは、逃げるように顔を背け、男の方へ向かって歩き出した。
目を合わせれば、恐怖で自分がどうにかなってしまいそうだった。
すれ違う瞬間。
リカは呼吸を止めた。全身の筋肉が強張り、まるで石像になったようだ。男の体温が、かすかに肌に触れた気がした。
そのまま、無言ですれ違う。
背中越しに感じる、男の視線。それが消えた瞬間、張り詰めていた糸がプツンと切れ、心の中で小さく安堵の息を吐いた。
―――次の瞬間、リカは想像を絶する恐怖に、全身の血液が凍り付くのを感じた!
背後から、突然、巨大な影が覆いかぶさる。
直後、力強い左手が、有無を言わさずリカの口を塞いだ。
掠れた悲鳴すら、喉の奥で押し殺される。
(動けない……!)
いや、動いたところで無駄だと、リカはすぐに理解した。口を塞いだ手の力が、常識を超えていたからだ。まるで鋼鉄の塊でできた枷のように、口元を完全に封じられている。
このまま、体が宙に浮いてしまうのではないか―――そう錯覚するほどの、圧倒的な握力だった。
そして、顔の右側から、生温かい鉄の匂いが鼻をつく。
目の前に、赤黒い、おぞましい何かが、ぼんやりと映り込んだ。
僅かな月明かりの下で、リカはそれが何かを理解する。
まだ乾ききっていない、べっとりとした血痕。鋭く光る刃先。それは、間違いなく刃物だった。
恐怖のあまり、リカの全身は鉛のように硬直する。
鼓膜が破れるほど近くで、男の低い声が囁いた。
「ああなりたくなかったら、声を出すな」
そう言って、男は目の前の血塗られた刃先で、何かを指し示した。
震える目で、その指の先を見たリカは、全身の細胞が悲鳴を上げるのを感じた。
細道の先に、人が倒れている。
黒々とした液体が、まるで花びらのように、その周囲に広がっていた。
間違いなく、血だ。大量の血。
男、滝沢が、低い声で言葉を続ける。「状況、理解出来るな?」
リカは、恐怖でガタガタと震えながら、首を縦に、必死に頷いた。
口を塞いでいた手が、ようやく解放される。解放された瞬間、酸素を求めるように、大きく息を吸い込んだ。
「そのまま歩け」
冷酷な命令が、背中に突き刺さる。
リカは、言われるがまま、震える足を進めた。
倒れている人の横を通り過ぎる。
顔は見えない。だが、その体の向き、周囲に広がる血の量。
たぶん、もう生きてはいない―――リカは直感的にそう思った。
現実感がなく、まるで悪夢を見ているようだった。
「その先の黒い車に乗れ」
細道を抜けた先に、武骨なシルエットの大きなピックアップトラックが、エンジンを切ったまま停まっていた。
街灯の光が、その漆黒のボディを鈍く照り返している。
思考能力を失ったリカは、ただただ言われる通りに、機械的に助手席のドアを開け、乗り込んだ。
遅れて運転席に乗り込んだ滝沢が、無表情のままキーを捻り、エンジンをかける。
轟、という低い唸りが、夜の静寂を切り裂いた。
次の瞬間、ピックアップトラックは、信じられないほどの猛スピードで、アスファルトを蹴り上げ、走り出した。
リカは、隣に座る男の横顔を、恐怖で強張らせた表情で見つめることしかできなかった。
これから、自分はどうなってしまうのだろうか―――。
暗闇の中、トラックはただひたすら、出口のない悪夢の中へと、加速していく。



