第七章:私のいない私の人生
「えっ…………」
滝沢から告げられた、残酷すぎる名前。
リカは、その言葉の意味を、咀嚼することができなかった。
全身から、力が抜けていく。項垂れ、膝から、ゆっくりと、崩れ落ちた。
床に両手をつき、ただ、震えることしかできない。
滝沢は、そんなリカを見下ろしながら、静かに、新しいタバコに火をつけた。
どれくらいの時間が、経っただろうか。
やがて、リカは、亡霊のように、ゆっくりと立ち上がった。
そして、おぼつかない足取りで、滝沢の方へと歩いていく。
ソファに座る滝沢の、その隣に、どさりと、座り込んだ。そして、祈るように、滝沢の腕を、両手で強く、強く、握りしめた。
「嘘よ……」
「嘘よっ!なんで……そんな……ひどい……」
堪えていた堰が、完全に、決壊した。
その両目から、大粒の涙が、滝のように、次から次へと、溢れ出す。
「望月綾(もちづき あや)……」
滝沢が、ぽつりと、一つの名前を呟いた。
「え……?」
リカは、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、滝沢を見る。
「聞き覚えが、ないか?」
「望月……と言えば、洋太の会社が、望月𝑪𝑶𝑴𝑷𝑨𝑵𝒀……」
「そうだ。そこの代表取締役の、一人娘が、望月綾だ」
「…………」
「その女と、お前の旦那は、四年前からデキてる。……もちろん、代表である父親には、内緒でな」
「えっ!?」
「一部上場企業で、それなりの役職まで行った、お前の旦那。だが、お前と離婚すれば、世間体や社内の体裁で、左遷か、降格か、あるいはその両方。今後の出世は、まず、なくなる」
「もし、綾との不倫がバレても、結果は同じだ。懲戒免職。……そこで、お前の旦那が考えついたのが、お前との、『死別』だ」
リカは、もう、言葉が出なかった。ただ、滝沢の言葉が、遠いどこか別の世界の出来事のように、頭の中を通り過ぎていく。
「お前と死別し、しばらくした後、望月綾と結婚する。そして、望月家に入り込み、ゆくゆくは役員の席を手に入れ、その地位を確保する。将来は、安泰だ……」
「それが、俺に、お前を殺すよう、依頼してきた、理由だそうだ」
その言葉を最後に、滝沢の腕を掴んでいたリカの手から、力が、完全に抜け落ちた。
だらりと、地面に落ちる。
リカは、無言で立ち上がると、ふらふらと、力なく、ベッドの方に歩いて行った。
そして、ベッドの上に置かれていた、あの、新しい預金通帳を手に取ると、再び、滝沢の前に戻り、ガラステーブルの上に、それを置いた。
「……この、通帳のお金で」
「結城洋太を、殺してください……。お願いします……」
リカは、その場に崩れ落ち、床に、土下座に近い状態で、額を擦り付け、嗚咽を漏らした。
滝沢は、タバコを、灰皿に、ぐり、と捻り消した。
「断る」
その、あまりに冷たい一言に、リカは、嗚咽しながら、顔を上げた。
「なんで、ですか!?……じゃあ、殺してください!私を!今すぐ、ここで!」
「……俺に依頼をしてきた奴らは、後に、必ず、不幸になる」
滝沢は、静かに言った。
「不幸になっても、いい……。こんなまま、生きてなんて、いけません……」
「それに、お前は、約束したはずだ。全てを聞いたら、新しい人生を、しっかりと生きて行くと」
「いきなり、こんな現実を、受け入れられるわけないじゃないですか……!」
「……お前の、その整形した顔は、あと五日で、完全に、『椎名璃夏』の顔になる」
「……」
「五日経ったら、ここから出て、新しい人生を受け入れろ。それまでは、泣くなり、喚くなり、弱音を吐くなり、好きにしろ」
「もう私は、友達にも、親にも、会えない……。これからは、ずっと、独りぼっちなんですね……」
「……孤独も、悪くないもんだぞ」
その言葉には、リカが想像もできないほどの、深く、そして長い孤独を生きてきた、男の響きがあった。
(あと、五日……)
(……私も、元々、孤独だったのかもしれない)
洋太とは、仲が悪くはなかった。だが、お互いに、もう、何年も前から、関心がなくなっていたのだろう。
だから、四年間も続いていた浮気に、私は、気づくことすら、できなかったのだ。
(私よりも、もっと、ずっと孤独なこの人は……私の、本当の気持ちを、誰よりもわかった上で……)
(私の全てを奪い、そして、私を、あの、偽りの日常から、自由にしようとしてくれた……?)
「……俺は、昨日、一睡もしてない。今から、寝る」
滝沢が、ソファから、立ち上がろうとした、その瞬間だった。
リカが、滝沢の体を、ソファに、強く、押し倒した。
そして、その体の上に、馬乗りになる。
「なっ、何しやが……!?」
驚愕する滝沢の、その顔を、リカは、両手で、優しく、包み込んだ。
そして、そのまま、自身の唇を、重ね合わせた。
それは、絶望の果てに見つけた、ただ一つの、人間的な繋がりを求めるかのような、深く、そして、長い口づけだった。



