「……」
滝沢は、答えない。ただ、天井を見上げ、タバコの煙を、長く、細く、吐き出すだけだった。
その、あまりに無関心な態度に、リカの中で、押さえつけられていた感情の堰が、ついに決壊した。
「私は!平凡な毎日だったけど!それでも、特に大きな不満もなく、普通に暮らして、生きてきたんです!」
リカは、ベッドから降りて、裸足のまま、滝沢の元へと歩み寄った。
「あなたに、私の人生の全てを、奪う権利があるっていうんですか!?」
「なぜ、私が、こんな目に遭わないといけないんですか!?」
リカの目から、怒りと、悲しみと、悔しさの涙が、止めどなく溢れ出す。
「生きるために、あなたの言いなりになって!訳も分からないまま、殺人の手助けまでして!……なんなんですか、一体……」
リカは、泣きながら、子供のように、ただ、その理不尽を訴えた。
静寂の中、滝沢が、初めて、リカの方を、真っ直ぐに見た。
「お前が、『まだ死にたくない』って、そう言ったからだろ。違うか?」
「……確かに、言いました。でも……こんな……こんなことになるとは……」
「この先の人生は、生きるも、死ぬも、お前の好きにしろ」
滝沢は、そう言って、再び、視線を天井へと戻した。
(好きに、しろ……?)
その、あまりに無責任な言葉。
その時、リカの脳裏に、あの、悪夢が蘇った。
血まみれで、倒れていた、夫の姿。
「洋太!」
リカは、叫んでいた。
「洋太は?夫は、無事なんですか!?」
「……もう、いいだろう。新しい人生のことだけを、考えろ」
その、どこか、全てを終わらせるような、突き放した言い方。
リカは、その言葉に、強烈な違和感を覚えた。
(『もう、いいだろう』……?)
「……ちょっと、待ってください」
リカの頭が、恐怖の中で、急速に回転を始める。
「もし、あの日、滝沢さんと私が出会ったのが、本当に偶然なら……何故、さっき、『バイトが終わって、足取りはわかってない』なんて、言ったんですか?何故、私が、バイトをしていたことを、知ってるんですか?」
「それは……私の存在を消すのに、大野勇次郎が、事前に調べていたのかもしれない。でも……でも、じゃあ、『もういいだろう』って……。その言い方なら、あなたは、洋太のことを、何か知ってるんですよね?」
「……」
「バイトが終わった後、私が、あなたに会ったのは……偶然じゃ、ないんですね?」
「……偶然だ」
「嘘!嘘です!ほんとうのことを、教えてください……!」
リカは、必死に、滝沢に食い下がった。
ふぅー、と。
滝沢が、今日一番、深いため息をついた。
「……聞いたら、全てを忘れて、新しい人生を、しっかりと生きて行くと、約束しろ」
「……わかりました。約束、します」
「……お前と会った、あの日。俺は、組同士の揉め事が発端で受けた仕事で、あの、丸山という男を殺した」
滝沢は、静かに、語り始めた。
【回想 ― 滝沢の視点】
丸山を殺害後、現場から離脱しようとしたが、運悪く、道路が工事で封鎖されていた。
仕方なく、迂回路である、あの細道に入った。
そこで、向こうから歩いてくる人影に気づいた。
(チッ……このままこっちに歩いて来たら、見られるな)
俺には、仕事の流儀がある。
依頼されたターゲット以外は、殺さない。
ただし、自分の身に危険が迫った場合は、その限りではない。
目撃者は、消す。それが、この世界の鉄則だ。
俺は、女とすれ違いざまに、その背後から襲い、アジトへと連れ帰った。
「持ってる物、全部出せ」
女にそう命じ、テーブルに出された持ち物を確認する。
女のスマートフォンをポケットにしまい、次に、財布から、運転免許証を抜き取った。
そこに書かれていた名前に、俺は、思わず、目を見開いた。
『結城リカ』
(……リカ)
俺は、思い出した。
この女は、結城リカ。
―――昨日、俺の元に、殺しの依頼があった、ターゲットの女本人だった。
さすがに、女や子供を殺(や)るのは、今でも、気が進まない。
だが、そのターゲットが、偶然にも、別の殺しの現場を、目撃してしまった。
そして今、俺の目の前で、怯えきっている。
考えた末、俺は、女に尋ねた。
「で、お前、どうする?」
女は、言った。「助けてください」と。
その瞳の奥に、まだ死にたくない、という、強い、強い、生の意志が見えた。
この女が、死ななければならない理由。そして、この女が、生きたいと願う、その理由。
それを考えたら、俺は、この女を、殺せなくなった。
(……まだまだ、甘いな、俺も)
そう、自嘲しながらも、仕事を見られたからには、このまま野放しにもできない。
俺は、決めた。
この女を、殺さずに、社会的に、完全に「消す」ことにした。
【現在】
「じゃあ……滝沢さんは、私を殺す依頼を、受けていたってこと、ですか?」
リカは、震える声で、そう尋ねた。
「……そうだ」
「だれ……?」
リカは、必死に考えた。
(私が、殺されるほど、誰かに恨まれるようなことをした……?)
だが、いくら考えても、思い当たる節が、全くない。
「誰なんですか……?」
「私を、殺してくれって、あなたに依頼したのは……一体、誰なんですか!?」
滝沢は、静かに、タバコの火を消した。
そして、冷徹な、しかし、どこか、哀れみを含んだ目で、リカを見つめ、その、残酷すぎる名前を、告げた。
「―――結城洋太だ」
リカは、その言葉の意味を、理解できなかった。
ただ、大きく、大きく、目を見開いたまま、その場に、立ち尽くしていた。



