第六章:結城リカの葬式


バイトが終わり、夫の洋太にLINEを送った。
だが、既読にならない。
『あれ?珍しいな』
普段なら、すぐに既読になって、すぐに返信が来るのに。
この日は、いつまで経っても、既読にすらならなかった。
家までの帰り道、リカは、未だ返信のないスマートフォンの画面を何度も見ながら、胸に広がる小さな違和感を覚えつつ、帰路に着いた。
玄関の鍵穴に、リカは鍵を刺し、回す。
カチャリ、という音が、しない。
『あれ……?開いてる……!』
玄関のドアを、そっと開け、中に入る。
「洋太ー!鍵、開けっ放しだよー!」
そう言いながら、靴を脱ぎ、中へと上がった。
廊下を歩き、リビングに向かいながら、声をかける。
「ねぇー!いるんでしょ?洋太」
リビングに入る。だが、洋太の姿はない。
テレビと、部屋の電気は、煌々とついたままだった。
「洋太?隠れてるの?」
リカは、テレビの方へと歩いていく。
そして、ソファの前に立った時、足元に、何か、黒い染みが広がっているのに、気がついた。
「えっ!?」
ソファの下を、覗き込む。
そこには、おびただしい量の血だまりの中に、うつ伏せで倒れている、洋太がいた。
「いやぁぁぁぁぁぁっ!洋太!?洋太ぁぁぁっ!」
リカは、その場に崩れ落ちる。だが、必死に、震える手でバッグからスマートフォンを取り出し、110番を押そうとした。
その時、目の前に、すっと、男の影が差した。
滝沢だった。
「!?」
いつから、そこにいたのか。全く、気配がしなかった。
滝沢は、ニヤリと、悪魔のように笑うと、静かに言った。
「行くぞ」
その声を聞いた瞬間、リカの体は、意思とは無関係に、きゅう、と熱くなった。
「ど……どこに、ですか……」
その問いを、遮るように、滝沢は言った。
「次の、仕事だ」
「……はい……」
なぜ?なぜ私は、この人の言うことを、聞いてしまうんだろう?
夫が、すぐそこで、血まみれで死んでいるのに。
「ようた……」
その呟きを最後に、リカの意識は、ぷつりと、途切れた。
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ベッドの上で、リカは、ゆっくりと目を開けた。
重いまぶたを、こじ開ける。
『……夢……』
だが、夢にしては、あまりに、感覚が生々しい。
リカは、ここが何処なのか、全くわからなかった。
上半身を起こそうとして、顔に、激痛が走った。
「えっ!?顔が、痛い……」
自分の顔に、そっと触れてみる。
口の上、鼻、目の周り、おでこ、頬骨……いや、顔全体が、分厚いガーゼのようなもので、覆われている。
どうなっているのか、全く理解ができない。
その時、ガチャリ、と、バスルームのドアが開く音がした。
滝沢が、腰にバスタオルを一枚だけ巻いた姿で、歩いてくる。
リカは、そこでようやく、自分が、滝沢のベッドの上にいることに、気づいた。
「目が覚めたか」
「はい。……まだ、少し、ボーっとしますけど……」
視界が、どこか、ぼやけていることにも、リカは気づいた。
「全身麻酔をしたからな」
滝沢は、クローゼットから、ラフなスウェットを取り出し、履き始める。
「私の顔……痛いんです。これは、一体、どうなってるんですか?」
ソファの前に置いてあった、透明なプラスチックのケース。滝沢は、それを手に取ると、リカのいるベッドの上に、無造作に置いた。
「この中に、お前の、全ての情報が入ってる」
「……全て?」
リカは、クリアケースを、おそるおそる手に取る。
ケースの一番上にあった、一枚の免許証を、取り出して、見た。
「……椎名、璃夏……。誰、ですか?この人」
「その中に、免許証、マイナンバーカード、預金通帳、印鑑、それと、お前が生まれてから、最近までの経歴が書いてある紙が、全部入ってる」
リカは、理解できなかった。だが、言われるがままに、クリアケースから全ての物を取り出し、ベッドの上に、一つずつ並べていく。
「本籍、住所は、その免許証に書いてある通りだ。それから……」
「ちょっ、ちょっと、待ってください!」
リカは、滝沢の言葉を遮った。
「なんだ?」
滝沢は、心底、めんどくさそうに言う。
「意味が……全然、理解できないんですけど……。この、『椎名璃夏』さん、というのは、そもそも、誰なんですか?」
滝沢は、ベッドの上のリカを、冷たく睨みつけた。
「だから今、それを、説明してやってるだろ」
「あ……はい……」
その視線に、リカは、再び、言葉を失った。
滝沢は、ソファの方に歩いていくと、深く腰を下ろす。
「三日前、主婦の『結城リカ』は、バイトが終わった後、行方が分からなくなった。足取りは不明だったが、近くの山の中に入っていったらしい」
リカは、まだ、意味が理解できない。だが、とりあえず、黙って聞くことにした。
「次の日の朝、『結城リカ』は、焼死体で見つかった。事件か、自殺かは、わからない」
リカは、たまらず、何かを言おうと滝沢を見た。だが、滝沢が、それを許さない、という目で、鋭く睨みつけてきたので、言葉を飲み込んだ。
「で、昨日の夜、『結城リカ』の葬式は、滞りなく終わった」
「!?」
その瞬間、リカの頭の中で、全てのピースが、繋がった。
あの、リゾートホテルのような場所での、大野勇次郎とのやり取り。
『こいつを、消してくれ』
『こいつの、新しい戸籍をくれ』
あの時の、「消してくれ」という言葉の意味。それは、物理的な死ではなく、社会的な、存在そのものの、死だったのだ。
滝沢が、タバコに火をつけた。
「あの、若き政界のエースは、本当に、仕事が早かった」
「………」
「で、その預金通帳。中に、500万、入ってる。例の、政界のエース様が、お前にくれた『餞別』だ、とよ」
その、あまりに、人を人とも思わない、残酷な言葉。
それを聞いた瞬間、リカの中で、何かが、弾け飛んだ。
彼女は、ベッドから、ゆっくりと体を起こすと、顔を覆うガーゼの隙間から、滝沢を、真っ直ぐに、睨みつけた。
「あなたは……人の人生を、なんだと、思ってるんですか?」
その声は、もはや、恐怖に震えてはいなかった。
静かな、しかし、燃えるような、怒りの炎が、そこにはあった。