滝沢は、ためらうことなく、ピックアップトラックのエンジンを掛け、アクセルを深く踏み込んだ。
一方、リカは、コンクリートの冷たい感触を、剥き出しの足裏で感じながら、必死に非常階段を駆け下りていた。
(生きるために、ここまで来たんだ!)
(でも、もし、あの男にここで捕まれば、私は、ただの犯罪者になってしまう!)
無我夢中だった。ただ、生き延びたい。その一心で、暗い階段を、転げ落ちるように駆け下りる。
地下駐車場に、猛烈なエンジン音と、タイヤがアスファルトを削る、甲高いスキール音が響き渡る。
滝沢が運転するピックアップトラックが、猛スピードで、非常階段の鉄扉の前に、ドリフトするように停車した。
リカは、最後の力を振り絞り、その鉄扉を押し開ける。
そして、滝沢の車の、助手席のドアを開けた。
その瞬間だった。背後から追ってきた黒服の男が、リカのドレスの背中部分を、力任せに掴んだ。
「掴まれ!」
滝沢が叫ぶ。
運転席から、力強い手が伸ばされる。リカは、必死に、その手に掴まった。
上半身は、何とか車内へと引き込まれる。だが、足は、まだ車外に出たままだった。
滝沢は、一切の躊躇なく、目一杯アクセルを踏み込んだ。
車は、轟音と共に、激しくホイルスピンをしながら、急発進する。
ブチッ、という、布が引き裂かれる音。
リカが着ていたドレスの背中のチャック部分が、その力に耐えきれず、弾け飛んだ。黒服の男の手が、空を切る。
猛スピードで加速しながら、滝沢は、片手でハンドルを操作し、もう片方の手で、リカの体を、力強く車の中へと完全に引きずり込んだ。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
リカは、酸素を求め、荒い呼吸を繰り返す。
「早く、ドアを閉めろ!」
滝沢の怒声が飛ぶ。
はっ、と我に返ったリカは、震える両手で、半開きのままだったドアを、力一杯、閉めた。
滝沢は、すぐにスマートフォンを取り出し、どこかへ電話をかける。
「おぅ!用意は出来てるか?………」
一瞬の沈黙。そして、滝沢の口から、苛立った舌打ちが漏れた。
「チッ!」
「昨日、行くと言っただろ!5分で用意しとけよ!」
リカは、酸欠と、極度のパニックで、頭が正常に働いていなかった。運転席での、滝沢の緊迫したやり取りなど、全く耳に入ってこない。
滝沢は、また、すぐに、別のところに電話をかける。
「ジジイのところに、車を持って来い!」
それだけ言うと、電話を切った。
エンジン音と、タイヤのロードノイズだけが聞こえる、静かな車内。
やがて、リカは、震える声で、滝沢に尋ねた。
「わ……私は……人を、殺したん、ですか?」
「あ?」
滝沢は、前を向いたまま、短く応える。
「………」
リカは、それ以上、言葉を続けられなかった。
「お前は、エロじじいに、太ももを触られただけだろ?」
滝沢は、吐き捨てるように言った。
「……でも!間接的に、私が……」
その言葉を、遮るように、滝沢は、静かに、しかし、きっぱりと言った。
「その後のことは、お前には、一切関係ない」
「………」
「これが……俺の、仕事だ」
滝沢たちが乗る車は、やがて、都会の喧騒を抜け、少し、田舎びた診療所の前に着いた。
リカは、車の窓から、古びた診療所の看板を見る。
(沖田、診療所……)
自宅と診療所が一体になった、昔ながらの開業医のようだった。
滝沢とリカは、車から降りると、診療所の入り口から、中へと入っていく。
入るなり、滝沢が、大声で叫んだ。
「おい!ジジイ!どこだ!?」
「ほいほいほいほい!今、行くがな!」
診療所の奥から、小太りのおじさんが、慌てた様子で、小走りで出て来た。
「用意は、出来てんのか?」
「あーあーあー、出来とるよ。やいやい、うるさい奴じゃな〜、相変わらず」
沖田と名乗るであろうその男は、リカに目をやると、ニヤニヤと笑った。
「おやおや、可愛いお姉ちゃんじゃないか。お前の、彼女か?」
そう言うと、沖田は、滝沢の目の前で、ニヤッと笑いながら、小指を立ててみせた。
ボコッ!
鈍い音がして、沖田が「いでっ!」と叫ぶ。
滝沢が、沖田の尻を、容赦なく蹴り飛ばしたのだ。
「早くやれ!ジジイ!」
「わかった、わかった!せっかちじゃのう!」
沖田は、尻をさすりながら、リカの方を向いて、手招きをする。
「じゃあ、お姉ちゃん、こっち、こっちにおいで」
「おい、これだ」
滝沢は、沖田に、あの時、小里から受け取った、カードらしき物を渡す。
「ほぅほぅ、なるほどな」
沖田は、それを受け取ると、意味深に頷いた。
三人は、診察室に入る。
「お姉ちゃんは、そこの診察ベッドに、横になっといてちょうだい」
沖田は、さっき受け取ったカードらしき物を、スキャナーに入れ、パソコンで、何やら、カチャカチャと操作を始めた。
やがて、沖田は立ち上がり、リカが寝ている診察ベッドの横に来た。
「じゃあ、お姉ちゃん。はじめるよ」
「えっ!なにを……」
リカが、言い終わる前に、沖田は、医療用のマスクを、リカの顔に、ふわりと被せた。
甘いような、化学薬品のような匂いが、鼻をつく。
一気に、周りの景色が、霞んでいく。
意識が、遠のいていく。
その、薄れゆく視界の中で、リカは、滝沢が、こちらを、じっと見ているのを見た。
その、滝沢の目が、ほんの一瞬だけ、どこか、悲しそうに見えた。
それが、結城リカとしての、最後の記憶だった。