第五章:毒と、唇と、引き金と
地下駐車場に停められた、黒いピックアップトラックの中。
滝沢は、静かにタバコに火を着けると、一本の電話をかけた。
それと同時に、クラブへと向かうリカの耳に着けられた、超小型のイヤホンが、微かに起動音を発する。電話に出る必要はない。自動で、繋がったのだ。
『聴こえるか?』
脳内に、直接、滝沢の低い声が響く。
リカは、これから向かうであろう、華やかな世界の入り口を前に、ただ、小さく頷いた。そして、思い出し、イヤホンを、指先で、そっと一度だけ叩く。
―――はい。
『いいか。お前の手の甲、それと両足。さっき塗った場所だ。もし、ターゲットがあの場所に触れたら、イヤホンを三回叩け。それが、合図だ』
大野の座る、豪華なボックス席へ、響に導かれながら歩いていく。
『ここ、ここ!ここに座りなさい!』
ターゲットである大野勇が、上機嫌な様子で、自分の座るソファの隣を、パンパンと手で叩きながら言う。
「失礼いたします。本日は、ご来店いただき、誠にありがとうございます」
リカは、完璧な笑みを顔に貼り付け、優雅に会釈をした。そして、ソファに深く腰を下ろす、その瞬間に、再び、イヤホンを一度だけ叩く。
―――はい。作戦、開始します。
大野勇は、その細身の体躯からは想像もつかないほど、声が大きく、まだまだエネルギッシュな老人だった。
話すことが、とにかく好きらしい。高級なブランデーを片手に、自分が総理大臣だった頃の武勇伝とやらを、延々と、そして実に楽しそうに喋り続けている。
リカは、ただ、相槌を打ち、感心したように瞳を輝かせ、時には、少女のように無邪気に笑ってみせた。心の奥底で、凍てついた恐怖を必死に隠しながら。
「そうだ!フルーツの盛り合わせでも、食べるかい?えみりちゃん!」
「えっ!よろしいんですか?大野先生!」
隣に座る響が、絶妙なタイミングで会話に入ってくる。
「えみりさん、良かったわね。先生に、すっかり気に入っていただいて」
「はい!このお店に来て、初日に、大野先生のような素晴らしい方に出会えて……本当に、この出会いに感謝しています」
リカは、練習した通りの、完璧な台詞を言った。
そのやり取りを聞いていた、一人の若いボーイが、静かに、バックヤードの方へと歩いていくのを、リカは、視界の端で捉えていた。
そして、もう一人。ボーイの制服ではなく、黒いスーツを着た、大野の秘書と思われる男が、大野の左斜め後ろに、石像のように佇んでいる。何か、違和感のある男だ。
「じゃあ、えみりちゃん!我々の、この素晴らしい出会いに、乾杯しようじゃないか!わっはっは!」
「はい!では、大野先生との出会いに、カンパーイ!」
リカは、グラスを高く掲げた。
周りにいた他のホステスたちと、そして響も、「カンパーイ!」と言って、一斉にグラスを呷る。
しばらくすると、銀色に輝く、巨大な器に入ったフルーツの盛り合わせが、ボーイ二人がかりで運ばれてきて、テーブルのど真ん中に置かれた。
「えみりちゃん、来たぞ!さぁ、いっぱい食べなさい」
「はい!ありがとうございます!」
リカは、満面の笑みでそう言うと、真っ赤に熟れた苺を一つ、指でつまみ、そっと口に運んだ。
「……美味しいです!私、果物の中で、苺が一番好きなんです!」
「そうか、そうか!良かった、良かった!はっはっは!」
大野の顔は、高級な酒のせいか、真っ赤に染まっている。かなり、酔いが回ってきているようだった。
「ところで、えみりちゃん、ゴルフはするのかね?」
「ゴルフですか?嗜む程度ですが、少しだけ、したことがあります」
その答えを聞いた、大野の、皺の寄った手が、ドレスの下から、リカの太ももへと伸びてきた。
そして、その肌を、ゆっくりと撫でながら、顔を近づけてくる。
「……今度、ワシと、一緒に、行くか?ん?」
生温かい、酒の匂いが、鼻をついた。
リカは、そのおぞましい感触に耐えながら、逆に、大野の耳元に、そっと唇を寄せた。
「……ご一緒、させていただけますの?」
と、吐息交じりに、囁く。
(……何も、感じない)
先日、滝沢に、同じ場所を触れられた時とは、違う。あの時の、恥ずかしくて、そして背徳的でさえあった、体の熱。それが、今は、全くない。ただ、不快なだけだった。
「可愛いなぁー!えみりちゃんは!はっはっは!」
下品な笑い声と共に、大野の手が、リカの太ももを、さらに大胆に撫で回す。
―――今だ。
リカは、流れるような動作で、長い髪をかきあげる。その、一瞬の隙に、親指で、イヤホンを、ト、ト、ト、と、三回、強く叩いた。
『―――トイレに行く、と言って、車まで来い』
即座に、滝沢の声が、脳内に響く。
リカは、名残惜しそうな表情を作り、大野の顔を、潤んだ瞳で覗き込んだ。
「大野先生……申し訳ありませんが、少しだけ、お化粧室に行ってきても、よろしいでしょうか?」
「おお!おお!もちろんじゃ、行って来なさい」
「ありがとうございます」
リカは、そう言って、大野に、愛らしく微笑んでみせた。
「だが、早く帰って来ないと、ワシが、この苺を、全部食べてしまうぞ?わっはっは!」
「先生!意地悪、言わないでくださいね。私の分の苺、ちゃんと、置いといてくださいね」
リカは、そう言って、ゆっくりとソファから立ち上がった。
「はっはっは!わかった、わかった!ここの、ピーナッツでも食べながら、待っとるからな!はっはっは!」
そう言いながら、大野は、テーブルの上のピーナッツを、数個、その大きな手で掴むと、一気に、口の中へと放り込んだ。
ソファから離れる時、リカは、響の方を見た。
響は、リカに、ただ、静かに、優しく微笑み、小さく、会釈した。
リカは、トイレの方角へと、ゆっくりと歩き出す。
そして、先ほどの、違和感のあった、あの黒服の秘書の男と、目が合った。
男の目が、鋭く光る。
その時だった。
ガッシャーーーーン!!!
フロアの反対側で、けたたましい破壊音が鳴り響いた。
ホステスたちの、金切り声のような悲鳴が上がる。
先ほどの、若いボーイが、大きなワゴンごと、シャンパンタワーに突っ込んだのだ。
リカは、一瞬だけ、後ろを振り返った。
その、一瞬の隙に。
―――大野勇が、椅子から、崩れ落ちるのが見えた。
そして、黒服の秘書の男が、大野には目もくれず、一直線に、自分の方へと、走り始めていた。
リカは、バックヤードへと続く扉に飛び込み、非常階段を、駆け下りた。
ガコン、ガコン、ガコン!
非常階段の上から、重い革靴が、コンクリートを叩く音が、猛烈な勢いで追いかけてくる。
(追われてる!)
『急げ!』
滝沢の声が、イヤホンから響く。
リカは、もう、お淑やかな「えみり」を演じる必要はなかった。
履いていたハイヒールを、乱暴に脱ぎ捨てると、それを両手に持って、剥き出しのコンクリートを、必死に、駆け下りた。
心臓が、張り裂けそうだった。



