滝沢は、手さげバッグから、ラベルの貼られていない、小さなガラス瓶を取り出した。
そして、立ったままのリカの前で、無造作に片膝をつくと、瓶の蓋を開ける。中の液体を、自身の指先に少量だけ取り、リカの左膝の上に、そっと塗り始めた。
ひやり、とした液体の感触。
それは、青酸カリだった。
「ッ!?」
リカの体が、恐怖にビクッと跳ねる。だが、滝沢は、そんな彼女の反応など意にも介さず、淡々と、そして丁寧に、その猛毒を塗り進めていく。
膝上から、少しずつ、少しずつ、上へ。柔らかな太ももの内側を、その指がゆっくりと撫で上げていく。やがて、ドレスの裾、そのギリギリの、足の付け根あたりまで来た時、リカの唇から、抑えきれない、熱い吐息が漏れた。
そして、右足も、同じように。
リカは、自分の下腹部が、きゅう、と熱くなっていることに気づいた。恐怖か、屈辱か、それとも、忘れていたはずの、女としての感覚か。その全てが混じり合った感情に、ただ、目を閉じて、耐えることしかできなかった。
塗り終わった滝沢が、静かに立ち上がる。
「手を出せ」
「……はい」
リカは、まるで操り人形のように、滝沢に、両手を差し出した。
滝沢は、その、白く、震える手の甲にも、同じように、死の液体を、薄く、薄く、塗り広げていく。
両方の手の甲に塗り終わると、今度は、ポケットから、チューブ式の何かを取り出した。
そのチューブから、透明のジェルを、リカの指の第一関節までの部分、十本全てに、薄く、丁寧に塗っていく。
それは、セメダインのような、強力な接着剤だった。指紋を、完全に消すために。
「それが乾いたら、これを耳に着けろ」
滝沢は、超小型の、Bluetoothイヤホンを差し出した。
それを受け取り、言われるがままに耳に着けるリカ。
「これが、それとペアリングしている携帯だ。自動着信になってるから、お前が取る必要はない」
「何かあれば、俺から指示を出す。『はい』なら一度、『いいえ』なら二度、イヤホンを指で叩け」
「それから……今、塗ったところには、絶対に、お前自身も触るなよ」
「……わかりました」
か細い声で、リカは答えた。
「行くぞ」
そう言うと、滝沢は、個室の外へと出ていく。
外には、先ほどの、東条響が、静かに立っていた。彼女は、滝沢とリカに、優しく微笑みかける。
滝沢が響の方へ行き、その耳元で、何かを、二言、三言、囁いた。リカには、その内容は聴こえなかった。
響は、こくりと、優雅に頷き、軽く会釈する。滝沢は、もう一度、リカの方をちらりと見ると、そのまま、静かに、店を出て行った。
「ではリカさん、こちらへ」
響に促され、リカは、客が座る、豪華なソファ席へと案内される。
響は、リカに、隣に座るように、と指示した。
「リカさんの、今夜の源氏名は、『朝桐えみり』です。ほんの少しの間だけですが、その名前で、ご辛抱くださいね」
「……朝桐、えみり……はい、わかりました」
リカは、その、自分のものではない名前を、心の中で、何度も復唱した。
そこからは、悪夢のような、現実感のない時間だった。
客への、お酒の作り方。相槌の打ち方。優雅な言葉遣い。響は、まるで、新人ホステスに教えるかのように、丁寧に、リカに、この世界の作法を教え込んでいく。
「それでは、えみりさん。しばらく、先ほどの個室で、ゆっくりとなさっていてください」
「はい……」
「『お仕事』になったら、私がお呼びに参りますので」
そう言うと、響は、リカに、また、あの、底の知れない優しい微笑みを向け、去っていった。
リカは、再び、あの個室に戻った。
未だに、何がどうなっているのか、全くわからないまま、ソファに、深く、体を沈める。
(結局、私は、ここで、ホステスとして働けばいいの……?)
さっき、滝沢が、リカの太ももに、死の毒を塗った、その場所を見る。
あの時の、自分の体が熱くなった、恥ずかしい感覚を、思い出した。
そもそも、夫以外の男性に、あんな風に触られたのは、何年ぶりだろうか。
仲は、悪くはない。だが、夫の洋太とは、もう何年も前から、求められることは無くなっていた。レス、という状態だった。
(私……まだ、あんな風に、なるんだ……)
そんな事を考えているうちに、個室の外が、急に賑やかになってきたことに気がついた。
他のホステスであろう、華やかな女性たちの声が、聞こえてくる。
(そろそろ、お店が、始まるのね……)
リカの心臓が、再び、大きく、そして早く、鼓動を始めた。
しばらくすると、個室のドアが、静かに開かれた。響だった。
「えみりさん。お客様が、おいでなさいましたので、こちらへ」
「……はい」
響の後ろをついて、メインフロアへと向かう。
「緊張なさらずに。ただ、微笑んで、話を聞いているだけで、大丈夫ですので。私が、きちんとサポートに入りますから」
リカの背中を、響が、そっと、優しく撫でた。
「はい……よろしく、お願いします」
リカは、響について、一つの大きなボックス席に着いた。
そこには、客らしき、白髪の、しかし、歳の割には精悍な顔つきの年配の男性が、数人のホステスを侍らせ、上機嫌で話していた。
響が、その年配の男性の近くに行き、優雅に、しかし、はっきりと通る声で言った。
「先生。本日、新しく入りました、朝桐えみりさんを、お連れいたしました」
響がそう言うと、年配の男性が、リカの方を向いた。
「おおー!そうか、そうか。えみりちゃん、まあ、ここに座りなさい!」
リカは、深く、深く、お辞儀をし、年配の男性の隣のソファに、近づいて……そして、気がついた。
その顔を、自分は、知っている。
(この人は……写真の……!?)
年配の男性は、元内閣総理大臣、【大野勇】。
今夜、滝沢が、殺そうとしている、その男本人だった。



