第四章:舞台への招待


朝。
リカは、昨夜眠ったソファの上で、重い体を起こした。
眠れた、という実感はない。ただ、意識を失っていただけに近い、浅い眠り。
部屋の主である滝沢は、すでに起きていた。リビングの、もう一つのソファに深く腰掛け、ただ、無言で、窓の外を眺めている。その横顔からは、何の感情も読み取れない。
それが、二人の奇妙な共同生活の始まりだった。
リカにとっての唯一の居場所は、キッチンの前の、あの小さなダイニングテーブルの椅子だけ。そこに座り、息を殺していると、まるで自分がこの部屋の風景の一部になったかのような錯覚を覚えた。
時間は、ただ、重く、静かに流れていく。
昼過ぎ、その静寂を破ったのは、滝沢のスマートフォンの着信音だった。
「はい……」
低い声で、電話に出る。
「……さすが、政界の若きエースだ。仕事が早いな」
その言葉だけで、電話の相手が、昨夜の男――環境大臣の大野勇次郎だと、リカにはすぐにわかった。
「……いや、それは急ぎでな。すぐにでも欲しい。こっちから、取りに行かせる」
滝沢の口調が、少しだけ鋭くなる。
「で、ソイツは誰だ?」
彼は、電話の向こうの情報を、一つ一つ、吟味するように、短い相槌を打つ。
「…………なるほどな……」
「……問題ない。……さすがだな」
受け取り場所や方法などを、手短にやり取りした後、滝沢は、こう言って電話を切った。
「あぁ……わかった。……こっちも、今夜、終わらせる」
(今夜……終わらせる……)
その言葉が、リカの心に、冷たい楔のように打ち込まれた。元総理大臣の、暗殺。
滝沢は、息つく間もなく、すぐに別の番号に電話をかけ、先ほどの受け取り場所と方法らしきものを、事務的に伝えている。
そして、それが終わると、また、別のところに電話をかけた。
「仕事だ。今夜行く。……用意しとけ」
それだけを言うと、一方的に電話を切った。
部屋には、また、あの重苦しい沈黙が戻ってきた。
━━━二時間後━━━
コン、コン。
控えめなノックの音。
「入れ」
滝沢が、短く応える。
「失礼します!」
入ってきたのは、昨夜、リカを買い物に連れて行った、小里だった。
滝沢は、ソファに座ったまま、小里を見て、スッと右手を差し出す。何かを受け取る、という合図だ。
小里は、懐から取り出した小さな何かを、急いで、その手の上に恭しく置いた。
リカの場所からでは、それが何かまではわからない。だが、カードのような、薄い板状のものに見えた。
(あれが、大野大臣から……?)
滝沢は、その何かを、まるで鑑定士のように、鋭い目で、じっと睨むように見ている。
やがて、満足したように、小さく頷くと、それをポケットにしまった。
そして、小里の方を向き、もう一度、無言で頷く。それが、任務完了の合図だったのだろう。
「では、これで」
小里は、深々とお辞儀をすると、音もなく部屋から出て行った。
「リカ!」
突然、自分の名前を呼ばれ、リカの心臓が、大きく跳ね上がった。
「!?」
リカは、大きい目を、さらに大きくして、驚きながらも、かろうじて返事をする。
「は、はい!」
「支度しろ。行くぞ」
「あ、はい……」
支度、と言っても、化粧品の一つも持っていないリカに、できることなど限られている。昨日買った服の中から、動きやすそうな、それでいて目立たない、黒いワンピースに着替えるだけ。それでも、その数分間が、永遠のように長く感じられた。
滝沢は、支度が終わったリカに、「行くぞ」とだけ言うと、部屋を後にしていく。
リカも、その大きな背中の後を、黙ってついて行った。
滝沢と出会った、あの夜に乗った、黒いピックアップトラックに乗り込み、車は、再び闇の中へと走り出す。
しばらく、無言の時間が続いた。
不意に、滝沢が、前を向いたまま、ぽつりと言った。
「お前、水商売したことはあるか?」
「……え?」
あまりに唐突な質問に、リカは戸惑う。
「……大学生の頃に、少しだけですが……ラウンジで、やったことがあります」
「……」
滝沢は、それ以上、何も言わなかった。
(なぜ、今、そんなことを……?)
リカの心に、また一つ、新たな疑問が生まれる。
やがて、車は、きらびやかなネオンがひしめく繁華街へと入り、一つの高層ビルの、地下駐車場へと滑り込んだ。
「着いたぞ」
そう言われて、リカは車から降りる。
エレベーターに乗り、滝沢が「7」のボタンを押した。
チーン、という軽い音と共に扉が開くと、そこは、別世界だった。
重厚な、ベルベットの絨毯。磨き上げられた大理石の壁。そして、巨大なシャンデリアが、無数の光の粒を振りまいている。
クラブなど、来たことがないリカでも、一目で、ここが、選び抜かれた人間だけが足を踏み入れることを許される、超高級な一流クラブだとわかった。
滝沢は、その、現実離れした空間を、まるで自宅の廊下でも歩くかのように、平然と、奥へと進んでいく。
リカは、ただ、その後ろを、夢遊病者のように、ついていくしかなかった。