第一章:運命の迂回路


私、結城リカ、32歳。
結婚して7年になる、子供のいない主婦。ありふれた日常。退屈ではないけれど、胸を焦がすような刺激もない、平坦な毎日。それが、私の人生だった。
夫の洋太(ようた)は、優しくて、真面目な人。ただ、少しだけ、物足りない。そんな些細な不満を抱えながら、私は今日も、家の近所にあるスーパーで、レジ打ちのパートをしていた。
ピッ、ピッ、と無機質なスキャンの音が響く。
「ありがとうございました。またお越しくださいませ」
感情を消した営業スマイルを、一日に何百回と繰り返す。閉店間際の喧騒が嘘のように静まり返った店内で、最後の片付けを終えた時、時計の針は、深夜11時を回っていた。
「お疲れ様でしたー」
同僚たちにそう挨拶をして、私は従業員用の通用口から、ひやりとした夜の空気の中へと足を踏み出す。早く帰って、お風呂に入って、ビールでも飲もう。
歩きながら、スマートフォンを取り出し、夫へLINEを送る。『今、終わったよー』。簡単なスタンプを一つ添えて。
いつもなら、このメッセージを送った数秒後には、画面に「既読」の二文字が灯るはずだった。それが、私たちの間の、暗黙のルールのようなものだったから。
『……あれ?いつもなら、すぐ既得になるのに』
画面は、うんともすんとも言わない。
充電が切れたのかな。それとも、疲れてもう寝ちゃったのかも。些細な違和感。だが、その小さなズレが、私の胸に、黒いインクを一滴落としたかのように、じわりと広がっていく。
そんなことを考えながら、いつもの帰り道を歩いていると、見慣れた大通りに出る手前で、行く手を阻まれた。煌々と光るオレンジ色の警告灯と、「この先、ガス管工事中につき、車両・歩行者ともに通行止め」と書かれた無機質な看板。
『あれ?ガス管工事なんか、してたんだ……』
そんな話、聞いていない。看板の横には、もう一つ、「迂回路」と書かれた、手書きの案内板が立てられていた。その矢印が指し示しているのは、街灯もほとんどない、暗く細い路地だった。
『嫌だなぁ……ここ、通ったことないし。すんごい、薄気味悪いよ』
口には出さないが、心の中で悪態をつく。遠回りになるけれど、明るい大通りまで戻るべきか。一瞬、そう考えた。でも、パートで立ちっぱなしだった足は、もう棒のように重い。一刻も早く、家に帰りたい。
私は、小さくため息をつくと、意を決して、その暗い細道に足を踏み入れた。
両側を、古いビルの壁に挟まれた、狭い道。湿ったコンクリートと、どこからか漂う生ゴミの匂いが鼻につく。頼りない月明かりが、私の足元に、おぼつかない影を伸ばしていた。自分のヒールの音だけが、カツ、カツ、と不気味に響き渡る。
40メートルほど歩いただろうか。
道の先の闇の中に、一つの人影が浮かんでいるのが見えた。
壁に、もたれかかるようにして立つ男。
俯き加減の顔、その口元で、タバコの小さな赤い火が、ぼんやりと光っている。
私がその存在に気づいたのを、男も察したのだろう。
俯いていた顔が、ゆっくりと、こちらに向けられる。
街灯の光が届かない、その闇の中から、射抜くような鋭い視線が、私を睨みつけていた。
恐怖で、足が縫い付けられたように動かない。
これが、結城リカという、平凡な主婦だった私の人生を、根底から覆すことになる男。
―――滝沢との、出会いであった。