リアが大きく両手を振る傍ら、銀世界にぽつりと墨を落としたかのような、真っ黒な影を捉えたであろうイヴァンが身を乗り出す。

「何だと? 銀騎士がどこに……──うぉ!?」

 べしゃっと彼の顔面を踏み台にして跳躍した影獣は、首に掛かったロケットに前脚で触れる。刹那、眩い四大精霊の光がその躰を包み込み、すぐさま見慣れた青年──エドウィンがそこから降ってきた。
 瞬時に抜剣した彼は着地すると同時に、驚くイヴァンの肩に向けて刃を薙ぐ。寸でのところで攻撃を回避したイヴァンだったが、ぶちりと音を立てて千切れた布からはリュリュの体が滑り落ちた。

「リュリュ!」

 リアが慌てたのも束の間、エドウィンはすかさず少年を抱き止めては後退する。あっという間にリュリュを奪還してくれた彼の元へ駆け寄れば、菫色の瞳がちらりと寄越された。

「エドウィンっ、来てくれたのね!」
「ええ。あなたの友人と、ここにいる精霊のおかげです」

 少年をリアに引き渡しながら、彼は紫水晶の耳飾りを指して微笑む。
 小さな影獣となったエドウィンならば、あの狭い洞穴を通って誰よりも早くここへ来れると踏んでの賭けだったが、どうやら上手く意図を汲んでくれたようだ。
 リアは積雪に落ちていた影の霊石をエドウィンの代わりに回収すると、彼に促されるまま後ろへと下がった。

「……くそ、今のは何だ? 貴様も精霊術師だったのか、銀騎士」

 イヴァンは忌々しげに悪態をつくと、腰の鞘から片刃剣を引き抜く。対するエドウィンも表情を引き締め、その場で静かに応戦の構えを見せた。

「イヴァン()()、皇帝陛下から貴殿の身柄を拘束せよとの勅命が下っています。しかし……僭越ながら陛下は、中断された和睦交渉の再開を望まれているはず。ですから」
「俺に自ら皇帝に頭を垂れろと言っているのか? はっ、見下されたものだ。所詮貴様らにとってキーシンは蛮族に過ぎんというわけだ」
「……応じるつもりはないと」
「我々の総意は既に伝えてある。女神ジスと共に生きることが叶わぬのなら、帝国との調和など未来永劫有り得んとな」

 ジス──キーシンの民が信仰している女神の名だ。世間一般では禍神(まがかみ)として知られ、かの地では日常的に生贄を捧げていたと聞く。
 クルサード帝国との和睦交渉に応じれば、まず間違いなくそれらの聖地にイーリル教会の手が入ることになるだろう。
 ジスに関する資料や遺跡を跡形もなく消される可能性は無きにしも非ず、だからこそキーシンの民は和睦という名の全面降伏に応じられない。
 たとえそれが虚構であっても、信じるものが他者の手によって抹消されることすなわち、彼らの人生そのものを否定しているようなものだから。
 その身に刻んだ信仰の証である刺青でさえ、和睦の末に「敗戦の証」へ成り下がってしまうのだと知り、リアは初めて彼らの矜持を強く感じ取った気がした。

「銀騎士。貴様には分からんだろうよ。皇帝に命じられるまま、ただ無心に我らを斬り続けた貴様に、キーシンの民の……ジスの叫びなど聞こえはしない」

 イヴァンがそう吐き捨てると同時に、エドウィンの肩がわずかに揺れる。
 リアは咄嗟に「違う」と口にしかけた。彼だって五年もの間、いつ終わるとも知れぬ戦で心を摩耗していたのに。侵蝕する疲労と絶望に気付かぬまま剣を振り、影の精霊に見初められたことで皮肉にもそこから脱したのだ。
 しかしてエドウィンは、そういった自身の経緯を一切口にしないまま、イヴァンの言葉を肯定した。

「──そうですね。母が魔女狩りで糾弾されて以降、僕はいずれの神も信仰していませんでした」
「!」
「信じるべきは己のみ。ゆえに神の加護に縋るのではなく、守るべきもののため、この足で戦場に立ち続けなければいけなかった。ただそれだけです」

 静かな返答に苦々しく唇を歪めたイヴァンは、気に食わないとばかりに剣を握り締める。そして今にも二人が刃を交えようかというとき、不意に複数の足音が沈黙を突き破った。

「いたぞ、こっちだ!」
「ゼルフォード卿もおられるぞ!」

 あの鎧は──エルヴァスティの王宮騎士団だ。わざわざ街の方から迂回して来てくれたのだろうかと、リアは目を瞬かせる。
 一方、状況の不利を悟ったイヴァンが早々に剣を下ろし、吹雪の奥へと逃げてしまう。完全にその姿が見えなくなる寸前、こちらに寄越された瞳は苦渋に満ちていた。

「イヴァン……」

 ──キーシンの勝利を掴むためには愛し子が必要? 本当に?
 エルヴァスティの大罪人は、人一倍責任感の強い彼にどんな話を吹き込んだのだろう。現役の精霊術師も知らないような、恐ろしい禁術でも行使しようというのだろうか。
 嫌な胸騒ぎを抱えたまま、リアとエドウィンは騎士団に連れられて寺院へと戻ったのだった。