──数日前。
 リアは調合に使う薬草を採取するために、一人で夜の森を散策していた。
 滞在している自治都市から、それほど遠くない場所にある長閑な森林だ。たまに熊や猪など危険な動物が出没するので、近くまで案内してくれた商人にはひどく心配されたが……。

「うーん! 空気が澄んでて最高!」

 親切な忠告をものの数秒で遥か彼方へ吹っ飛ばし、リアはブーツ片手に裸足で森を歩く。
 自治都市の郊外で借りている宿は昼も夜も光が入らず、風通しもあまりよろしくない。気分転換に中央広場へ赴いても、人混みが凄くかえって体調を崩す始末。
 だからこそ、田舎育ちのリアにとって森の空気は心地良かった。つい昔の癖で靴まで脱いでしまったが、別に誰にも見られていないので大丈夫だろうと高を括る。

「さてと、さっそく探そうかしら」

 いそいそと鞄を草むらに置いた彼女は、中から清潔な布を取り出す。薄暗い宿でちくちくと針を刺したそれは、薬草を包めるよう袋状に縫い合わせたものだが、少々──いやかなり不格好である。
 針仕事はどうしても苦手だった。やるたびに指先が血だらけになるので少しは上手くなりたいところだが、未だ上達の兆しは見えず。

「ま、今はお師匠様もいないし! 誰にも文句言われないもんね」

 リアはけろりと開き直ると、耳を澄ましては周囲に人の気配がないことを確かめる。
 そして、左肩からお腹にかけて垂れ下がっている長い黒髪を持ち上げた。
 大きな三つ編みにした髪は太く、何より重い。毎日の手入れは勿論、普通に立っているだけでも肩が凝る。ちょっと座るだけで毛先に砂埃がついたり、雨に濡れやすかったりと、あまり良いことはない。
 デメリットばかりなのに、彼女が何故これほどまでに髪を伸ばしているのかというと──。

「──大地を巡る導きの翠風よ、我が道を示したまえ」

 リアは静かな声でそう唱えると、小さなナイフで三つ編みの先端を切り落とす。
 すると何処からか穏やかな風が吹き抜け、くすくすと誰かの笑い声が聞こえてくる。
 指先や頬、睫毛をくすぐった軽やかな風は、やがて淡い光となってリアの側を浮遊し始める。
 刹那、切り落とした髪が光に飲み込まれ、リアの背中を強風が叩いた。

「あっちね」

 スカートの裾が舞うのも構わず、彼女は荷物を持って風下へ向かう。
 メイスフィールド大公国の東、クルサード帝国を超えた更に東方──エルヴァスティ王国には、精霊術と呼ばれる不思議な術が存在する。
 その名の通り、世界の理を司る精霊の力を借りて、生活の手助けをしてもらうのだ。
 過去に魔女狩りが行われた大公国や帝国において、エルヴァスティの精霊術師はもれなく「魔女」と称されてしまうが、当人たちはどれだけ非難されても何処吹く風である。

「あー! 良いのあるじゃないっ、これ鼻炎に効くのよね」

 善神イーリルを唯一神として捉える帝国に対し、全ての神的存在は等しく精霊であり、世界のあらゆる事象は彼らの気まぐれによって起きるというのがエルヴァスティの見解だ。
 そしてそれは不確かな宗教などではなく、紛れもない事実として民に受け入れられている。
 精霊術師は一様に伸ばした髪を供物にして、精霊の力を享受し、現在に至るまで共に生きてきたのだから。

「こっちは……前にハーブティーにしたやつだ。はちみつ入れたら美味しかったの、また作ってみようかな」

 リアが風の精霊に語り掛けると、くるくると彼女の前髪が舞い上がる。相槌を打つ代わりに、こうして可愛い悪戯をしてくるのが風の子らだ。
 これが火の精霊だと火の粉が周りに散るし、水の精霊だと局地的豪雨に見舞われるしで、大変危ない。語り掛けるのは穏やかな気性の風に限る。──たまに荷物が吹っ飛ばされることもあるが。
 鼻歌まじりに薬草の厳選をしていたら、あっという間に袋がいっぱいになった。リアは満足して鞄に薬草を入れると、脱ぎっぱなしだったブーツを履く。

「……あれ?」

 しかしもう片方、左足の靴が見当たらない。
 どこに打ち捨てたのかと周りを見回していたとき、突如として木々の隙間から現れたのは──塗り潰されたような漆黒の体を持つ、小さな獣だった。