「──オーレリア!!」

 黒一色の影へと変貌してしまった弟子を見て、ヨアキムは喉に痛みを感じるほどの大声を上げる。
 だが傍らに倒れ込んだ騎士共々、影は何の返事も寄越さない。そればかりか人の形すら崩れ始め、段々と彼らの手足は輪郭を失っていく。
 ヨアキムはすぐさま火の精霊を伴って駆け寄ろうとした。しかし。

「っ!?」

 鼻先を鋭い何かが掠める。
 寸でのところで上体を反らしたヨアキムは、床に着地した漆黒の狼を見遣った。あれは──リアの護衛に就いていた騎士の一人だ。影獣に変化したせいで意識を乗っ取られたのか、唸り声を上げてこちらを威嚇している。

「くそ、ふざけた真似を……!」
「私はいつだって大真面目だよ。今も、昔も」

 ようやく階段から腰を上げたダグラスは、狼と睨み合うヨアキムに向かって笑みを投げ掛けた。
 彼は溢れ返る黒い靄の中を突き進むと、すっかり小さくなってしまった影──リアの元へと歩み寄る。その手がゆっくりと影へ伸びれば、見咎めたヨアキムがかっと怒りを滲ませて怒鳴った。

「そいつはお前の道具じゃないと言ったことを忘れたか!? 自分勝手な妄執にいつまでも付き合わせてんじゃねえ!」
「妄執? ひどい言い種じゃないか」

 ヨアキムの声を聞き流すように鼻を鳴らしたダグラスは、片手でリアを拾い上げる。
 一対の翼をだらりと垂らした小鳥を、彼は手のひらに乗せて嘆息した。

「……ふむ、鳥か。君らしい」

 濃緑の瞳に微かな憂いを湛えたのち、再びヨアキムの方へと視線を戻す。

「ヨアキム。君は聡明な男だが……やはり私の理解者ではない。せめてこの子が孤独に苛まれぬよう、今ここで殺してやろう」

 一際高く、モーセルの杖が床を叩く。
 蠢くばかりだった影の精霊たちが覚醒を促され、次々と獣の姿を形成していく。
 過去に獅子の影獣(ハーヴェイ)と対峙したことのあるヨアキムは、本物の獣と変わらぬその獰猛さや俊敏さをよく理解していた。これほど多くの影獣に囲まれれば最後、己の肉体が跡形もなく食い尽くされることも。
 ──退くべきだと分かっている。
 だがこの場を離れることすなわち、影獣と化した弟子を見捨てることに等しい。ヨアキムは捨て身の覚悟で手のひらをナイフで切りつけると、血の匂いを嗅ぎつけて寄ってきた大量の精霊を鋭く一瞥した。
 たったそれだけで精霊を怯ませた術師は、ゆっくりと息を吐き、再びダグラスを睨み付ける。

「お前が……あの日どれだけの絶望を覚えたのか、理解はしてるつもりだ。だが、それでもオーレリアを巻き込むのは許さん」
「そんなことを言っている時点で、君は理解などしていないのだよ。この子は当事者だ。私の──」

 影の鳥を虚ろな瞳で睥睨(へいげい)したダグラスは、そこでモーセルの杖を床へ振り下ろす。


「愛しいヘルガの命を奪った、罪深き悪魔の子だろう?」


 それはさながら、裁きを下す木槌のごとし。一斉に咆哮を上げた影獣が、我先にと獲物へ襲い掛かった。
 ダグラスから放たれる禍々しい気がその場を支配するかと思われたその時、鮮明な怒りを瞳に宿した精霊術師は吐き捨てる。

「そいつは俺が十八年かけて育てた弟子(むすめ)だ! 適当言ってんじゃねぇよ!!」

 ひくりとダグラスの唇が引き攣ったことに気付きながら、ヨアキムは血に染まった左手を振り払った。飛散した鮮血を四大精霊が各々喰らうや否や、燦然と輝く光が影を圧倒する。
 光は影獣を靄ごとエントランスの隅へと追いやり、逃げ場さえも尽く潰していく。視界が明瞭になったなら、即座にヨアキムが階段を駆け上がった。
 手にしたナイフをきつく握り締め、そこに悠然と構える罪人の胸倉を掴む。
 しかし──振りかざした刃を、ヨアキムはなかなか動かすことが出来なかった。
 震える右腕を静かに一瞥したダグラスは、呆れと嘲りを露わにかぶりを振る。

「初めから結末は決まっていたようだ。……君の負けだねぇ、ヨアキム」

 腹部に強い衝撃を受け、ずるりと踵が滑る。浮いた体を食い気味に捕らえたのは、いつの間にか四大精霊の光を掻い潜ってきた影だった。
 そのままヨアキムが黒々とした波に飲み込まれそうになれば、自らが貰い受けるべき対価を奪われると危惧したのか、四大精霊が勝手に影獣を攻撃し始める。無論それは──術師であるヨアキムを守るための行動ではない。
 人生で初めて、ヨアキムは精霊を制御するための手綱を放してしまったのだ。

「ぐっ……」

 光と影の精霊が衝突し、生じた凄まじい余波によってヨアキムは階段下に打ち捨てられる。背中に走る鈍痛に呻いたのも束の間、その鳩尾に杖の先端が突き立てられた。
 咳き込みながら瞼を開くと、ダグラスの哀れむような顔がそこにある。

「本当に、君は素晴らしいね。()()()()()()()()()、今日まで無事に生きていられるとは」

 影の鳥がにわかに反応を示す姿を後目に、ヨアキムはその言葉を力なく笑い飛ばした。

「……愛し子が短命なんてデマ、俺が払拭しないで誰がやるんだ?」
「この子のためかい?」
「他に何がある。そいつが──オーレリアが巣立つ日まで生きるって決めてんだ。邪魔するなよ、部外者が」

 そのとき、ダグラスの手に捕らえられた影の鳥が突如として翼を動かす。ダグラスは靄を散らして暴れる小鳥を一瞥し、鷹揚な仕草で肩を竦めた。

「……この期に及んで親子ごっこかい。まあ良い、愛し子が二人もいれば儀式は成功するさ。屍は残らないが……魂は一緒に弔ってあげよう」

 杖と小鳥をまとめて左手に抱え、拾い上げたナイフをくるりと回す。ヨアキムの首筋に躊躇なく刃を宛がえば、切れた皮膚から一筋の赤が流れ落ちた。
 この場にいる全ての精霊が、愛し子の血に引き寄せられる。不気味なほどに静まり返った空間で、ヨアキムはうっすらと最期の瞬間を悟ってしまい、忌々しげに舌を打った。


「──お師匠様ぁ!!」


 聞こえないはずの涙声に瞠目したとき、今にも首を掻き切ろうとしたダグラスが、勢いよく視界の外へと突き飛ばされた。
 代わりに現れたのは抜身の剣と、短く刈り上げた金髪。懐かしい大きな背中。
 そんなはずはないと目を瞬かせれば、すぐに幻覚は消え失せる。

「っ……案外、来るのが早かったな」

 ダグラスの自嘲気味な声と共に、その人影がはっきりとした輪郭を成す。
 風に揺らぐ、束ねた藍白の髪。一本の剣を体現した銀色の騎士。旧友とは似ても似つかぬ後ろ姿は、しかして二度目の懐古をヨアキムに植え付けた。