惚れ薬とは、遥か昔から精霊術師もとい薬師を困らせてきた依頼の一つだった。
 それが異性を振り向かせたいという単純な願いなら可愛いもので、薬師自身が相談相手になって依頼者を宥めすかすことが出来る。
 一方で、政略結婚で嫁ぐ相手に惚れ薬を飲ませ、婚姻に伴う両者の取引きを優位に進めたいだとか。既に他の男と婚約している女をどうしても諦めきれず、不道徳を承知で惚れ薬を仕込みたいだとか。そういった手合(てあい)は非常に扱いづらく、控えめな説得もまるで意味を為さない。

 ──結論を言ってしまえば、惚れ薬は存在しない。それに似たものは無数にあるけれど。

 依頼者が正常な倫理観を有し、単なる気の迷いで惚れ薬を所望しているようならば、「惚れ薬です」と言って適当な茶葉や強めの酒を渡して終わり。
 相手を意のままに操りたいと鼻息荒く語る者に対しては、材料調達と称して無理難題を押し付けまくり、強制的に諦めさせる。
 前者は薬効のない偽薬と言えど、惚れ薬という切り札があることで積極的な行動に出やすくなり、結果として想いが成就する確率が跳ね上がる。それを「薬師がくれた惚れ薬のおかげだ」と思い込んでいるというだけの話だった。
 後者については薬師の評判が落ちるが、そもそも他者を操り人形にする薬も術も存在しないので、一時的な不評はそれほど深刻に捉えずともよいだろう。大事なのは、七面倒な薬に頼るぐらいなら自分で努力をした方が何倍も良い、と思考を修正させることなのだから。
 薬師と惚れ薬のなかなか切り離せない関係について思いを馳せたリアは、改めて目の前のアナスタシアに意識を引っ張り戻す。

「……スターシェス様が、惚れ薬を使うんですか……?」

 要らないだろう、確実に。そんな胡散臭い薬──と胡散臭い存在の象徴でもある精霊術師見習いは思ってしまった。
 大陸で最も力を持つクルサード帝国の第一皇女。メイスフィールドやべドナーシュ、その他の諸国からも縁談は腐るほど舞い込んできているに違いない。老若男女問わず魅了してしまうアナスタシアなら、意に沿わぬ結婚であっても上手く乗り越えられそうな気がした。
 否、もちろん皇女も一人の人間なので、不安はあるだろうけれど。

「私がそんなものに頼るのは意外かな?」
「え、あ……は、はい」

 無礼と知りながら遠慮がちに頷けば、アナスタシアは怒ることもなく笑った。リアの反応は予測済みだったのだろう。

「こんな時勢に、下らないことを頼んですまないね。だけど精霊術師と話せる機会なんて初めてだし……やはり私には惚れ薬しかないと思って」
「ええと……事情を聴いても?」

 とりあえず話だけでも聞いておくべきかと、恐る恐るリアは尋ねてみた。
 ──しかし麗しき微笑の後、突如として立ち上がったアナスタシア。何処からか現れた足置きに踵を引っかけ、片手を胸に当てては天を仰ぐ。ついでにサロンの照明までもが暗く落とされ、窓から射し込む陽光が皇女の姿を煌々と照らした。

「──聞いておくれ、愛の女神エシュタルよ」
「え?」
「私は誰から見ても明らかな、報われぬ不毛な恋をしてしまったのです。重なる眼差し、触れ合った手、乱れた吐息……あの夜をひと時だって忘れたことなどありません」
「みっ……!?」
「決して振り向いてはくれぬと知りながら、それでもひとり身を焦がしてしまう私は、何と浅ましいのでしょう……彼の目はいつだって私とは別の、心から愛するものへ注がれているというのに」

 肩や腰に両腕を這わせては切なげな溜息を漏らすアナスタシアの姿は、何かいけないものを見ているような気分にさせる。口を開けたまま赤面している田舎娘のことはお構いなしに、なおも皇女による一人劇は続いた。

「ああエシュタルよ、お許しください。彼の心が欲しいばかりに、禁じられた実に手を伸ばす愚かな私を、どうか……」

 床にくずおれたアナスタシアは、女神に許しを乞うかのように手を持ち上げたが、あえなく叩き落されてしまう。拒絶された手を抱き締めて皇女が蹲れば、しばしの静寂が訪れる。
 やがてすっくと皇女は立ち上がると、足置きをソファの下に収納する。無言でカーテンを開けて元の場所に戻ってくると、唖然としているリアの手を掬い上げて笑った。

「──というわけだ」
「いやいやいやいや何だったんですか今の時間!?」
「しみったれた口調で話すより伝わるかと思ってね。どうだいオーレリア、私を哀れに思ってくれるのなら、惚れ薬を作ってくれないかな。もちろん報酬は弾むよ」

 冗談なのか本気なのか、全く区別がつかないアナスタシアの笑顔。しかし何度確かめても「今の独白は本当の話だよ」の一点張りなので、押し負けたリアはとうとう惚れ薬の依頼を承諾したのだった。