しばらく、どちらも動かなかった。
言葉も、発さなかった。
通り過ぎるのは、車と、ネコと、夜に塗りつぶされる朱色だけ。
静寂を破ったのは、千住サマの口から放たれた、震えた私の苗字だった。
「……氷高、」
「……だって千住サマ、写真立てを毎回立てるんですもん。それに、千住サマの初恋の人って、あかねさんですよね?」
「ひだ、」
「あ、千井が全部話したわけではないです。ただ、偶然千井があなたの初恋の人云々の話をしてくれて、たまたまあなた方が通っていた中学の名前を知りえて、私があかねさんの勤務先と職種を知っていただけ、」
「氷高!!」
初めて、彼の口から私の苗字が叫ばれた。
けれど、それに怯む私ではない。
「……どこにも、間違いなんてないでしょう?千住サマ」
ないはずなんだ。
だって、彼の、彼からのやさしさには。
……ひたすらに、義務感しか感じられなかったのだから。



