私はカワウソ少女だ。
 カワウソが来るぞ、と嘘をつき続けた結果、本当にカワウソが現れた時には誰からも信じてもらえない。

 うぉーん、こんなことなら、カワウソが来るなんて嘘を――。

 一度たりとも、言ってないよ!
 そりゃ、いろいろ皆を騙してきたけどさ。
 カワウソが枕元に出て来て、「お前もカワウソになるぞう」なんて珍妙な話をするわけない。
 信じる方がおかしい。

 現実は嘘より奇なり。
 奇妙も度が過ぎて、自分ですら未だ夢を見せられているみたい。
 家に帰ったらカワウソなんて霧と消えていて、いつもの生活に戻れる気もしてくる。

 直立して喋るカワウソは、最初からいなかった。
 全ては受験勉強で疲れた私が見た幻覚なのだ。

 家の玄関に辿り着いた私は、一端荷物を肩から下ろして、ドアに鍵を差し込む。
 幻よ、消え去れ。
 ウエルカムバック、現実。

 ロックを外し、ドアを開けると、非現実の象徴が気をつけの体勢で私を待っていた。

「おかえりー」
「うぉーん」

 膝から崩れ落ちそうになるのを、なけなしの気力を以って踏み止まり、キッチンへ荷物を運ぶ。
 袋の中を覗きながら、私の周囲を駆け回るミャアについては、極力考えないようにした。

「うわぁ、変なの買ってきたねえ。これ、野菜?」

 無視だ無視。
 たまに夕方から酔っ払っているオヤジを駅で見かけるけど、あれも何かが見えているのかな。
 虚空に向かって、「おいっ」とか「てめぇ」とか。
 私の症状もよく似ている。
 酒なんて飲んだことないけどね。

 買ってきた物を整理したあとは、自室へ上がってスカートだけ着替えた。
 母の帰りは九時半くらいだろう。
 夕飯は私の当番なので、ちゃっちゃと片付けることにする。

 卵スープとサラダを先に作り、豚肉多めの野菜炒めに取り掛かったところで、我慢の限界が訪れた。

「ねえねえ、次は何を作るの? デザートはある? あっ、ボクの分は少なくても大丈夫だよ」
「もうっ、喋りっぱなしじゃない! ちょっと静かにしてよ」
「だってぇ、楽しみなんだもん」

 我ながら人がいいと思うけど、晩御飯もせがまれるのを予想していたので、少し多く準備してある。
 殺虫剤が鞭なら、食事は飴だ。
 両面から責めれば、ミャアも大人しくなろうという作戦だった。

「これ、分かる?」
「毛むくじゃらの野菜。美味しくなさそう」
「自分も毛だらけのくせに、そんなこと言うんだ」

 ミャアが言うところの野菜を半分に切り、断面を見せつける。

「ああっ、美味しいやつ! 名前知ってるよ、きゅーいだ!」
「そう、昼間つまみ食いしてたよね」
「見てたの?」
「もちろん。他人(ひと)のキウイを食べるのは、いいことかな?」
「悪いこと……だと、思う……けど……」
「そうそう、いけないよねえ」

 はしゃいでいた元気もどこへやら、ミャアは(こうべ)と一緒に、耳まで前に垂らす。
 蓋をするように、ちっちゃな耳をペタンと。

「ものすごく美味しそうだったから……」
「だから?」
「匂いが甘かったんだ。我慢しようと思ったんだよ?」
「このキウイ、ミャアに全部あげてもいい」
「ほんとに!?」

 勝ったな。
 綾月家のルール、ここでしっかりと頭に入れてもらおう。

 約束を守るなら、ミャアの分の夕飯も作る。
 守らないなら、ご飯もオヤツも抜き。

 私の通告を受けて、カワウソがブルッと身を震わせた。

「一つ、他人の物は盗らない」
「きゅーいも?」
「キウイもミカンもダメ。つまみ食いは一切禁止します」
「分かった。盗らない」
「一つ、私が家事や勉強をしているときは、静かにする」
「が、頑張ってみる」
「一つ――」
「まだあるの!」

 最後の三つめは、ルールというより警告だ。
 私や母や、紗代なんかに迷惑を掛けた際には、厳罰で臨むことにする。
 殺虫剤の刑だ。
 どぎついカラーリングの缶を指し、極刑を浴びたくなかったら大人しくしろと脅した。