きみがため

結局光はそれ以上話してくれなくなり、私は「また来るからね」とため息交じりに声をかけて病室を去ることにした。

ナースステーションで挨拶を済ませ、エレベーターで階下に降りる。

エントランスに出れば、病院に入る前は明るかった空が、暮れかかっていた。

ロータリーに沿うように歩いて、病院の敷地外を目指す。

五月だというのにほんのり冷たい風が、私の肩までの髪をサラリと撫でた。

ここを通るたびに、あの日のことを思い出してしまう。

――お父さんが、亡くなった日。

同じ景色の中を、まだ幼かった光の手を引いて、とぼとぼ歩いたっけ。

あのときの空っぽな気持ちと、胸の奥にズドンと沈んだ悲しみを、今でも昨日のことのように思い出せる。

つらい思い出を振り払うように下を向き、病院の敷地外へと出る。

お父さんが早くに亡くなって、弟は病気がち。

お母さんは働きづめで、私は家事と弟の世話で手いっぱい。

こんな重い家庭、普通じゃない。

私は、普通でありたかった。

お母さんにお弁当を作ってもらって、家では弟と喧嘩をして、それをお父さんが穏やかにいさめて。

毎日部活を頑張って、自分の家のことも、包み隠さず友達に話せるような環境にいたかった。

苦い気持ちが胸に溢れるのを感じたとき、目前の店舗看板にパッと明かりが灯る。

デニスカフェ。

アメリカ発の全国チェーンのカフェで、病院の傍に、ちょうど一年前にオープンした。

オレンジ色の看板と、ダークブラウンを基調とした落ち着いた外観が、特徴的なお店だ。

行ったことはないけど、入り口に貼られたおいしそうなタルトのポスターや、店内から漂うコーヒーの香りに、以前から惹かれてはいる。

もう、看板に明かりを灯すような時間なんだ。早く帰らなきゃ。

そう思いながらガラス張りの店内に目をやった私は「あれ?」と声をあげていた。

見覚えのある顔が、窓際に面したテーブルをせっせと拭いていたからだ。