きみがため

これは、ずっと決めていたことだった。

母子家庭の我が家では、進学するより、就職する方がよほど助かるからだ。

川島部長や田辺くん、そして夏葉みたいに夢もないし、それが妥当だろう。

だけどなぜか、そう答えたとき、胸の奥がモヤモヤとした。

夏葉の凛とした美しさに触発されたかのように、文芸部の文集のためにエッセイを書いた夜を思い出していた。

桜人の詩の熱情を思い出していたら、何かが身体に入り込んできたみたいに、秘めた思いを、心の声を、文字にして原稿用紙に刻んでいた。

心が躍るような、全身の血が脈打つような、他では味わえない快感。

あのとき、気づいたんだ。

わたしは、文章を綴ることが好きなんだって。

私の胸の内には、数多くの想いが眠っている。言葉で言い表すのは苦手だから、それを文字として紡いで、翼を与えて、放ってあげたい。

ちゃんと読みなよって川島部長に勧められて呼んだ、ツルネーゲフの『初恋』。他にも川島部長や田辺くんが勧めてくれた、『林檎の木』『車輪の下』『風立ちぬ・美しい村』『智恵子抄』。 

そして桜人が好きな“君がため”の和歌。彼の紡いだ詩。

文学は、今しか抱けない思いを、紙に留めてくれる。

誰に読まれるわけでもなく、いずれは塵となって消えたとしても、そこに生きた意味がある気がした。

「そっか。卒業してからも、絶対に会おうね。……って、まだ先の話だけど」

呆然としていると、夏葉の声が降ってきた。

我に返った私は、慌てて、「うん」と夏葉に笑顔を返す。

「それにしても、暑いね……」

うまく笑えただろうか。

心配になり、誤魔化すようにアイスの最後のひと口を口に放り込んだ。

すっかり溶けていたそれは、瞬く間に液体になって消えてしまった。