お母さんが亡くなったのは、九年前の今日のこと。

 私は小学一年生で、その日はひどく雨が降っていた。いつもは騒いでいるクラスメイトは、なぜか小声で給食を食べていて、教室のなかにも雨のにおいが漂っていたことを覚えている。

 そのころの私は今じゃ考えられないくらいおしゃべりで、頭に浮かんだいろんな話題を飽きることなく話し続けていた。
 だから、いつもと違う雰囲気には違和感があったし、それを壊すのもはばかられるほどの重い空気を感じていた。

 昼休みが終わるころ、青い顔をした担任の先生が私の名前を呼んだ。名前は忘れたけれど、蛍光色(けいこうしょく)のスウェットを好んで穿()いている若い男性で、『(ほたる)』というニックネームで呼ばれていた。
 蛍先生はいつもの冗談もなく、荷物をまとめるように、と硬い声で言った。クラスメイトのざわめく声。
 みんなの視線が注がれているのがわかり、私ははじめて意識して視線を下げた。

 次の記憶はセレモニーホールで参列者に何度も頭を下げていたこと。
 お母さんの写真が大きく飾られていて、周りには白いバラがたくさん置かれていた。写真のなかで笑うお母さんは、最後に会った日よりもふっくらしていた。

 誰もが心配して声をかけてくれた。

『亜弥ちゃん、つらいよね』
『困ったことがあったらなんでも言ってね』
『まだこんなに小さいのに……』

 どの顔も(すみ)で塗られたように真っ黒に思えた。
 それくらい誰の顔も見ていないし覚えていない。機械的に首を横に振ったりうなずいたりした。
 心の中はしんとしていた。それは、私にとっての悲しい時期はもっと前に終わっていたから。

 お母さんの体のどこかに病気が見つかり、入院することになった日からずっと悲しかったし、泣いたりもした。
 その延長線上にある一日だと思った。

 たぶんお父さんが買ってくるお寿司のせい。ともに語られるお母さんの容態(ようたい)に、いつしか覚悟のようなものが積み重ねられていたんだ。
 入学式にお母さんが来られないと聞いたときも、自分よりもお母さんが悲しいだろうな、と思った。

 だから、先生に呼び出されたときも、親戚の人や近所の人が励ましてくれたときも泣いたりはしなかった。
 長い苦しみからお母さんが解放されたことに、ホッとしている自分がいた。
 私の隣で泣きじゃくっているお父さんの手を握って、ただ時間をやり過ごした記憶がある。

 それは今も変わらないし、こういう運命を受け入れて今日までやってきた。
 最初は心配して顔を見せに来てくれた人たちも、淡々(たんたん)としている私にいつしか足が遠のいていった。