「で、最近は生足ショートパンツでフラフラしてないわけ?」

「やめてよ。早くもトラウマになってんるんだから」

 肉が食べたい!という沙和子に誘われ会社の最寄り駅近くの肉バルに来ている。カジュアルなイタリアンの雰囲気の店だ。

「う~ん。ジューシーだわ~」

 沙和子は美味しそうにレアに焼かれたランプキャップを口に運ぶ。倣って雫もいただく。

「ほんとだ、柔らかい!」

 ソースのフルーティな味わいと相まってとろけるようよう美味しさだ。雫は頬を緩める。


 羽野と同居を始めて10日ほどたった。

 最初の朝こそ変な空気にしてしまったものの、その後は順調だと思う。
 朝は着替えてからリビングに行くようにしている。
 羽野が『着替えちゃったんだ』残念そうに呟いていたのは……たぶん冗談だろう。

 日本に帰って来て間もない彼は引き継ぎや挨拶回りで忙しいらしく、連日帰宅は遅く、先週末も出勤していた。

 しかし、疲れているはずなのに『シアトルでは自分でやっていたから慣れてるよ』と言って朝食は彼が準備してくれる。

「羽野さんも思い切ったことしたわねー。応じた雫にもビックリだけど」

沙和子は早くも2杯目のビールを飲み干す。実はなかなかの酒豪なのだ。多少の事では潰れない。

 親友の彼女には事の顛末を伝えてある。

「羽野さんのお役に立てるのなら、と思ってたんだけど、なんかとても快適に暮らしちゃってて申し訳ないんだよね。このままだとアパートに戻るのが嫌になりそう」

 雫のビールはまだ1杯目の途中だ。2年前の反省から、外では量をあまり飲まないようにしている。

「まぁ、それが狙いなんだろうけど」

「え?」

「ううん、ひとりごとー」

 沙和子はそう言うとドリンクメニューを開き、次に飲むものを思案し始めた。

 実際、マンションは会社に近いので通勤も嘘のように楽だ。通勤時間を睡眠に回せるし、夜は寝心地の良いベットでぐっすり眠り、朝食も羽野が作ってくれる美味しくてバランスが良いものをしっかり取れている。お陰で体調も肌の艶も良くなっている気がする。

「しっかし、あれほど男の人が苦手な雫が同棲しちゃうなんて、おねーさんは感慨深いよ」

「同棲じゃなくで同居だから」

 雫はすかさず否定する。

 さすがに沙和子にも言っていないが、羽野からの『朝の挨拶』は続いている。
 毎朝髪やこめかみや額に軽くキスをしてくるのだ。

 今朝は家を出る前に「今夜は三上さんと夕食だっけ。楽しんでおいで」と甘い雰囲気を醸し出した彼に頬にキスされた。どこの新婚夫婦だ。毎回、ものすごく自然な流れで接触してくるので、慣れつつある自分に驚いている。

(男の人は苦手なのに、なぜか羽野さんには触られても平気なんだよね。あのさりげなさのせい?イケメン搭載のスキル?)

 この『朝の挨拶』も『他人じゃない雰囲気』を作るために彼が無理して行っているのだろう。

(家賃も生活費も協力料の代わりで必要ないと言われたし……返って迷惑かけちゃってるなぁ。早く役目を果たしてあのマンションを出るようにしないと)

 悶々と自分の考えに沈んでいく雫を沙和子は微笑を浮かべながら見守っていた。



(そうは言っても具体的にどうしたらいいんだろう…)

 役目を早く果たすためにどうしたら良いのだろうかとぼんやり考えながら帰宅し、カードキーでマンションのドアを開ける。

 リビングに明かりが点いている。今日は羽野が先に帰っているようだ。

 店を出る前に羽野にはメッセージを送り、帰ると伝えてあった。同居を始めてから、心配だからと頼まれ、帰宅時の連絡は欠かさずするようにしている。

「しーちゃんお帰り」

 リビングに入ると、ソファに座り何やら書類を見ていた羽野が顔を上げて嬉しそうに笑った。

「ただいま戻りました…」

 雫はこの笑顔に弱い。甘さを含んだ表情と視線に胸がざわざわと落ち着かなくなる。

「あれ、結構飲んだ?顔が赤いけど」

「いえ、2杯飲んだだけですけど……酔っちゃったかな」

 きっと顔が赤いのはお酒のせいでだけでは無い気がするが、酔ったせいにしてごまかす。

「そっか、コーヒー飲む?俺入れるよ」

 彼はそう言って立ち上がる。

 会社での羽野は柔和で親しみやすい人柄ながら、時には冷静に厳しい指示を出す頼れる上司だが、一人称はこうして雫と二人になると「僕」から「俺」に代わる。
 それだけでずいぶんくだけた雰囲気になる。

 加えて彼は雫に甘い。朝食も作ってくれるし、何かと世話を焼いてくれる。
 掃除などの家事は気づいた方がやる事にしているのだが、羽野の方が先に済ませてくれる事が多いのだ。

「ありがとうございます」

 ソファーに座りコーヒーを受け取りながら、上目使いに羽野を見上げる。頬がまだほんのり熱い。

 目が合った羽野は切なそうな顔になり、すっと目を逸らし「あーもう……」と呟き、自らの髪を右手でぐしゃりと乱した後、ため息を付きながらソファーに座った。

 髪の毛が乱れても、それはそれで雰囲気があって格好よく見えてしまうから不思議だ。

 ここの所彼はは何か言いたげだったり、やるせなさそうな表情を見せる事が多い。
 何か困っていることがあるのだろうか。仕事がうまくいっていないのだろうか。心配になる。

「あの、羽野さん、お疲れなんですか?」

「え?」

「何かこう、消耗している感じがしますが」

「……そうだね。今取り組んでる案件、思った通りの環境に持ち込んだはいいけど、その後膠着状態でね。どうしたいかは分かっているんだけど、うまく進められなくて、精神が削られてるんだ。まあ、とにかく我慢を強いられている訳」

 暫く間があった後、横目で雫を見ながら羽野が言う。

「我慢ですか?相当、難しい案件なんですね」

「そうなんだよ。手強い案件。絶対モノにしたいから、慎重に進めているんだけど。自分でもこんなに我慢できるのかと驚いているくらい」

 やり手で有名な羽野をそこまで手こずらすなんて。どんな案件だろう。経営統括部の仕事に関わってはいるが現在滞っている事案があるとは聞いていない。きっとまだ水面下で進められているのだろう。
 重要なプロジェクトは部署内であっても内容によってはオープンにならない事も多い。

「上手くいくと良いですね。何かお手伝いできることがあったら言ってください」

「ありがとう。そうだね……君にお願いできる事はたくさんあると思うよ」

 羽野はなぜか含みを持たせた言い方をした。微笑を湛えながらこちらに向ける表情が不穏な気がする。

「えっと、羽野さん、夕食は食べたんですか?」

 落ち着かなくなった雫は話題を変える。

 自分は美味しく肉をいただいてきたのだが、彼はどうだったんだろう。

「夕方会議だったから、用意してもらった弁当を食べたよ」

「そうなんですか。仕事の合間に慌てて済ませたり、付き合いでの外食が多いと体に良くないですよね」

 何やら難しい案件も抱えてストレスを感じているようだし。せめて食事くらい栄養バランスの良いものをゆったり食べれたらいいのに。

 ――雫にある考えが浮かんだ

「もし良かったら明日から夕食の準備しましょうか?」

「え、良いの?」

 羽野はぱっと顔を輝かせる。

 雫は男家系で生まれた唯一の女子だったこともあって、祖父からの『女の子は女の子らしく』という超時代錯誤的な考えの元、子供のころから一通りの家事は出来るように育てられた。

 料理も基本的な事なら問題なくこなせる。

「大したものは作れませんが……お仕事忙しいですか?家で食べてる時間はないでしょうか」

「いや、食べるよ!しーちゃんが作ってくれるなら、どんなに遅くなっても食べる」

 羽野はものすごく嬉しそうだ。

「あぁ、でも、無理ない範囲でね。しーちゃんは今忙しくないの?」

「そうですね、今日は定時過ぎで上がれましたが、波がある感じです」

「忙しい時、他のメンバーは手伝ってくれないの?」

「……いえ」

 雫が経営戦略部に配属され一人前になった後、繁忙期には他のメンバーも手伝おうとはしてくれていた。ただ、最近はそういう事もあまりなくなって来ている。声をかけずらくなっているのだろう。必ず断るのだから当然だ。

「周りの人を信用していない訳じゃ無いんでしょ」

「はい」

 信用していないわけじゃない。自分の為に迷惑を掛けたくないのだ。それに仕事には責任を持ちたい。

「他の人の手を煩わせたくはないので」

「しーちゃんのそういう責任感が強いところも好きだけど、仕事ってチームでやるっていう面もあるよね。たまには頼ってみるのも良いんじゃない?関田さんなんて、いつもしーちゃんの事気にしているように見えるよ」

 前半何か引っかかる事を言われた気がするが、仕事はチームでやるというのは羽野の言う通りかもしれない。

 もちろんチームでやるプロジェクトはそういう体制になっている。だが、その上で個人分担されている業務を他人に振る事は無責任な気がして素直に頼れない。こういうところが可愛げが無いのだろう。

 だから、婚約者のフリをするという役目があるとは言え、このマンションにただ住まわせてもらっている今の状況もかなり落ち着かない。

 夕食を作ることで、少しでも役に立ちたいと思ったし、純粋に羽野の体調が心配だった。
 一方何か大きな期待をさせてしまったようなので、雫は内心焦る。

 機嫌の良い羽野をよそに、献立を何にするか早速悩み始めるのだった。