『これやるよ。俺の名刺』
いつかそう言ってもらったものだ。
伊月の名前が書いてあるだけのただの紙切れのはずなのに、気持ちが一気に伊月に持っていかれる。
名刺をもらったときの伊月の表情。一瞬触れた指先。部屋の温度。すべてが思い出され、自分自身の感情の波に襲われる。
昨日、必死の思いで新幹線に乗ったのに、夜涙をこらえたのに……こんな名刺一枚で昨日の努力全部が水の泡になる。
ぐっと強烈に伊月へと向かう気持ちに襲われながら、そうか、と気付く。
どうして今朝、自分がいなくても回る仕事に違和感を覚えたのか。
どうして今更、今まで付き合っていたひとたちが、私じゃなくても都合がよければ誰でもよかったと再確認したとき、虚しさを感じたのか。
それは、伊月が私を特別扱いしてくれていたからだ。
伊月に会う前だったら、そんなこと引っ掛かりもしなかった。所詮他人との付き合いだし、それがどこかで当たり前だと思っていた。
母親が出て行ったのは、無責任な性格のせいだ。でも、私は実の親に捨てられるような人間なんだって、どこかで思ってしまっていたから、きっと切り捨てられても私のせいだという可能性が消せなかったのかもしれない。
でも……伊月は私をそう扱わなかった。
『おまえは悪くない』
目を見て、そう言ってくれたから。



