夕餉が澄み。夜も更け。

 何時かも分からない時間に目を覚ました汐里。
 借り受けていたコップを手に、自由に飲んで良いからと言われていたお茶でも飲もうかと台所へ足を運ぶ。

 瞬間、

――キーン――

 いつもの入れ替わりが起こった。
 もはや慣れ親しんだ感覚は、コップを落とすことなく、またふらつくこともなく。

(まぁ、何だゆっくりしててくれ)

『ん。ありがと』

 そんなやり取りを経て、今度は琢磨の方が、勝手知ったる家の中を進んで行く。
 扉を開け、そちらの方を見やるや、既に一つあった影が視界に入って来た。

「おー、茜。何してるんだ?」

 ふと、声を掛けた。
 本当に何とも無しに、いつも通り――けれどもそれは、琢磨であったらの話。

 今まで通り当たり前の言葉をかけたつもりだったのに。
 今の琢磨が言う“いつも通り”なら、それは汐里を演じている女口調に対してだ。
 見た目は赤の他人である女の子。声も口調も香りも、全てが琢磨の要素を備えてはいないのに。

 それなのに――

「えっ…?」

 しまった、と琢磨が思うより早く、茜が弾かれたように振り向いた。
 そうして目が合うと、一瞬間驚いたような表情こそ見せたものの、直ぐに「何だ」と大きく息を吐いた。

「ど、どうしたの…?」

 慌てて戻した汐里の口調で、恐る恐る、尋ねる。

「ううん、ごめんなさい。兄さんの影が、見えた気がして。全く同じ風に尋ねてきたから、ビックリしちゃったんです」

 琢磨はふと、目頭が熱くなるのを感じた。
 今の自分は、陸上汐里でもなければ、内に眠る仲村琢磨でもない。
 全くの第三者、宮下桃であるというのに。

 桃のことすらあまりよくは知らない茜。勿論、陸上汐里なんていう人物については、どう考えても知らない筈。
 仮に万が一知っていたとして、しかしその中に兄である琢磨の人格が潜んでいるなんて、聞いたところで信じられない話だ。

 それは全て、知る筈がないことなのに。

「茜、ちゃん…」

「ごめんなさい…ちょっと、思い出しちゃった。兄さんのこと」

 小さく震える、小さな肩。
 触れただけで倒れてしまいそうな身体に、手を伸ばす。

「私――」

 口を開いた、その時。

――キーン――

 随分と短い内に、また入れ替わりが起こった。
 伸ばしていた手は引き、それは叶わない。

 代わりに、

「……私の知らない、茜ちゃんだけが知ってる琢磨さんのこと――良かったら聞かせてもらいたいな」

 汐里の言葉に、茜は少しばかり驚いた様子。
 けれども直ぐに顔を上げると、困ったような笑みを浮かべて頷いた。