扉の硝子窓から中の様子を確認すると、先生はデスクに向かって事務作業をしていた。
「先生、いるね。私、説明しようか?」
「それは流石に大丈夫、ちゃんと嘘は言わないで正直に伝えるから」
「ほんとに? 怪しいなぁ」
「あ、私ってそんなに信用なかった?」
「嘘嘘、じゃあ私、教室戻るから。また休み時間に様子見に来るね」
「うん。ほんとにありがとね、美希」
「全然よ。じゃね」
片手を挙げて小さく振って、美希はその場を後にした。
残された琢磨は、既に自分のことのように有難さを覚えていたその背中を、角を曲がって視えなくなるまで見送った。
そうして足音も聞こえなくなると、どうしたものかとその場に立ち尽くす。
本当のことを言えば、どこにも異常がないからだ。
心配してくれている美希の気持ちを呑んでやって来てみたはいいものの、異常がないのに、それをどう養護教諭の先生に説明すればいいものやら、検討も付かなかった。
結論、何もないと言われればそれまでで帰れば良いだけの話だと腹を括ったが、次の休み時間に様子を見に来るからと言ってくれた美希にはどう説明をしたものか。先のあの状況を傍から見ていると仮定すれば、今まで何もなかった人が急に倒れたのだ。躓いたなんて言葉ばかりで、その実物音一つ立てずにふらついた訳なのだから。
「はぁ。気が重いな」
『何言ってるのよ。今、貴方が思ってる通りでいいじゃない』
「それはそうなんだが……まぁほらあれだ、君にも申し訳ないからな」
『そんなこと考えなくてもいいって。行けって言ったのは私なんだから』
「言葉は大変嬉しいが、うーむ……」
と、煮え切らず言葉を濁す琢磨に、
「――っと、おぉ」再び入れ替わりが起こった。
『いやちょっと待て、これだと本当に意味がない…!』
「まぁまぁそう怒らないの。いいじゃない、たまには。サボりって、実はちょっと憧れてたのよ」
『まさか優等生さんからそんな言葉が――って、それはいいんだよ。悪いな、ほんと』
「気にしないの。とりあえず入るよ」
それ以上の無駄な謝罪の言葉を聞かぬよう、出来るだけ優しくそう言って、汐里は保健室のドアをノックした。すると、すぐにドアの向こう側から「はーい」と返って来て、失礼しますとドアを開けた。
「すいません、体調不良で……」
下手をすれば気付かれかねないレベルの演技でそう言うと、しかし養護教諭の高橋先生は振り返るなり「あら」と意外そうな顔。
「二組の陸上さんよね?」
「え……? あ、はい」
「また珍しいお客さんだこと。今日は少し特別な日ね」
「特別?」
「ええ」
と高橋先生が頷くと、少し遅れてベッドサイドのカーテンが開き、そこから一人の男子生徒が顔を出した。
さらりとなびく髪に整った顔立ち、色っぽい右目の泣きぼくろが特徴的なのは、本校生徒会長の茶臼山輝典だ。汐里同様、毎日欠かさず授業には出て、且つ成績も常に上位をキープしている文字通りの才色兼備。
そんな茶臼山が、保健室にいることは至極珍しいことであった。
「て、輝く――会長…! どうしてまた保健室に?」
汐里が尋ねるや、上履きに足を通して立ち上がり、そのまま汐里の方へと歩いて来て、
「いやぁ、我ながら情けない話なんだけどね。夜の間にお腹が冷えちゃったみたいで、腹痛が止まらないんだ」
「腹つ……ぷっ…ふふ」
「あ、笑ったな?」
「ご、ごめん、ちょっと意外過ぎてと言うか、あまりにも似合わないものだから、つい」
汐里は堪えきれず腹を抱えて、声まで上げて笑い始めてしまった。
そんな様子を冷静に、しかし笑顔で観察していた高橋先生は、
「なんだ。良かった、元気そうじゃない」と一言。
しまった、と気付く汐里は、しかしまだ状態の説明もしていなかったことに気付く。
「えっと……実はですね。国語の授業だったんですけれど、先生に指名されて立ち上がった際に、ふらついて倒れちゃったんです」
「ふらつき? 目眩とか?」
「はっきりとはしませんが、多分そんな感じだったと思います。言ってしまえば、本当にそれだけだったから何も異常はないんですけれど、美希――あぁ、友人が行け行けって聞かないもので」
「あら、そういうことだったの。それはまた、惜しい話ね。皆勤だったんじゃない?」
「そうなんですけど、まぁそれは全然いいんです」
「ふぅん。友達思いなのね」
優しく微笑む高橋先生。その通りだった。
別に皆勤に拘っているわけではない故に、汐里は親友たる美希の言葉に甘えたが、それはただ単に断る理由がなかったわけではなく、寧ろ断れなかったという方が正しい。
自分のことを本当に心配してくれている友人の言葉を無碍には出来ないと、気を遣う琢磨にさえ逆に気を遣ったのだから。
見た目の硬さとは違って、中身はとても柔軟で思いやりがある。
琢磨が抱いたのは、そんな汐里への評価だった。
「さて。僕はそろそろ行きます。美しい友情を見せつけられてたら、何だか痛みも退いてきたようですので」
そんなことを言いながら、輝典は立ち上がり、扉の方へと歩いていく。
「もう――じゃない。大丈夫なの?」
「すっかりって言うと嘘になるけれど、流石に二限欠課は生徒会長らしくないからね。高橋先生、ありがとうございました」
「何もしてないけどね。お大事に」
高橋先生が軽く手を振って見送ると、それを受けた輝典はぺこりと綺麗に頭を下げて出ていった。せっかく会えたのに。そんなことを思った瞬間、心の中で琢磨が笑っていることに気が付いた。
(何か言いたそうな顔ね…?)
『別に。それよか、良いのか? 無言で立ってると変に心配されるぞ』
(っとそうだったわ。今の私は、あくまで病人擬きなんだった)
『うっわ、怖いな女って』
友人の為なら演技も厭わないとは恐ろしい。
咳払いを一つ。不敵に微笑む汐里の横顔に触れた瞬間、敵には回したくないタイプだと悟る琢磨だった。
やっぱりまだふらつきが。そんな嘘を通して、汐里は許可を貰ったベッドにダイブした。
「先生、いるね。私、説明しようか?」
「それは流石に大丈夫、ちゃんと嘘は言わないで正直に伝えるから」
「ほんとに? 怪しいなぁ」
「あ、私ってそんなに信用なかった?」
「嘘嘘、じゃあ私、教室戻るから。また休み時間に様子見に来るね」
「うん。ほんとにありがとね、美希」
「全然よ。じゃね」
片手を挙げて小さく振って、美希はその場を後にした。
残された琢磨は、既に自分のことのように有難さを覚えていたその背中を、角を曲がって視えなくなるまで見送った。
そうして足音も聞こえなくなると、どうしたものかとその場に立ち尽くす。
本当のことを言えば、どこにも異常がないからだ。
心配してくれている美希の気持ちを呑んでやって来てみたはいいものの、異常がないのに、それをどう養護教諭の先生に説明すればいいものやら、検討も付かなかった。
結論、何もないと言われればそれまでで帰れば良いだけの話だと腹を括ったが、次の休み時間に様子を見に来るからと言ってくれた美希にはどう説明をしたものか。先のあの状況を傍から見ていると仮定すれば、今まで何もなかった人が急に倒れたのだ。躓いたなんて言葉ばかりで、その実物音一つ立てずにふらついた訳なのだから。
「はぁ。気が重いな」
『何言ってるのよ。今、貴方が思ってる通りでいいじゃない』
「それはそうなんだが……まぁほらあれだ、君にも申し訳ないからな」
『そんなこと考えなくてもいいって。行けって言ったのは私なんだから』
「言葉は大変嬉しいが、うーむ……」
と、煮え切らず言葉を濁す琢磨に、
「――っと、おぉ」再び入れ替わりが起こった。
『いやちょっと待て、これだと本当に意味がない…!』
「まぁまぁそう怒らないの。いいじゃない、たまには。サボりって、実はちょっと憧れてたのよ」
『まさか優等生さんからそんな言葉が――って、それはいいんだよ。悪いな、ほんと』
「気にしないの。とりあえず入るよ」
それ以上の無駄な謝罪の言葉を聞かぬよう、出来るだけ優しくそう言って、汐里は保健室のドアをノックした。すると、すぐにドアの向こう側から「はーい」と返って来て、失礼しますとドアを開けた。
「すいません、体調不良で……」
下手をすれば気付かれかねないレベルの演技でそう言うと、しかし養護教諭の高橋先生は振り返るなり「あら」と意外そうな顔。
「二組の陸上さんよね?」
「え……? あ、はい」
「また珍しいお客さんだこと。今日は少し特別な日ね」
「特別?」
「ええ」
と高橋先生が頷くと、少し遅れてベッドサイドのカーテンが開き、そこから一人の男子生徒が顔を出した。
さらりとなびく髪に整った顔立ち、色っぽい右目の泣きぼくろが特徴的なのは、本校生徒会長の茶臼山輝典だ。汐里同様、毎日欠かさず授業には出て、且つ成績も常に上位をキープしている文字通りの才色兼備。
そんな茶臼山が、保健室にいることは至極珍しいことであった。
「て、輝く――会長…! どうしてまた保健室に?」
汐里が尋ねるや、上履きに足を通して立ち上がり、そのまま汐里の方へと歩いて来て、
「いやぁ、我ながら情けない話なんだけどね。夜の間にお腹が冷えちゃったみたいで、腹痛が止まらないんだ」
「腹つ……ぷっ…ふふ」
「あ、笑ったな?」
「ご、ごめん、ちょっと意外過ぎてと言うか、あまりにも似合わないものだから、つい」
汐里は堪えきれず腹を抱えて、声まで上げて笑い始めてしまった。
そんな様子を冷静に、しかし笑顔で観察していた高橋先生は、
「なんだ。良かった、元気そうじゃない」と一言。
しまった、と気付く汐里は、しかしまだ状態の説明もしていなかったことに気付く。
「えっと……実はですね。国語の授業だったんですけれど、先生に指名されて立ち上がった際に、ふらついて倒れちゃったんです」
「ふらつき? 目眩とか?」
「はっきりとはしませんが、多分そんな感じだったと思います。言ってしまえば、本当にそれだけだったから何も異常はないんですけれど、美希――あぁ、友人が行け行けって聞かないもので」
「あら、そういうことだったの。それはまた、惜しい話ね。皆勤だったんじゃない?」
「そうなんですけど、まぁそれは全然いいんです」
「ふぅん。友達思いなのね」
優しく微笑む高橋先生。その通りだった。
別に皆勤に拘っているわけではない故に、汐里は親友たる美希の言葉に甘えたが、それはただ単に断る理由がなかったわけではなく、寧ろ断れなかったという方が正しい。
自分のことを本当に心配してくれている友人の言葉を無碍には出来ないと、気を遣う琢磨にさえ逆に気を遣ったのだから。
見た目の硬さとは違って、中身はとても柔軟で思いやりがある。
琢磨が抱いたのは、そんな汐里への評価だった。
「さて。僕はそろそろ行きます。美しい友情を見せつけられてたら、何だか痛みも退いてきたようですので」
そんなことを言いながら、輝典は立ち上がり、扉の方へと歩いていく。
「もう――じゃない。大丈夫なの?」
「すっかりって言うと嘘になるけれど、流石に二限欠課は生徒会長らしくないからね。高橋先生、ありがとうございました」
「何もしてないけどね。お大事に」
高橋先生が軽く手を振って見送ると、それを受けた輝典はぺこりと綺麗に頭を下げて出ていった。せっかく会えたのに。そんなことを思った瞬間、心の中で琢磨が笑っていることに気が付いた。
(何か言いたそうな顔ね…?)
『別に。それよか、良いのか? 無言で立ってると変に心配されるぞ』
(っとそうだったわ。今の私は、あくまで病人擬きなんだった)
『うっわ、怖いな女って』
友人の為なら演技も厭わないとは恐ろしい。
咳払いを一つ。不敵に微笑む汐里の横顔に触れた瞬間、敵には回したくないタイプだと悟る琢磨だった。
やっぱりまだふらつきが。そんな嘘を通して、汐里は許可を貰ったベッドにダイブした。