数日。
 諸々と準備も整うと、出立の明日を控えて夕刻になっていた。
 上手くやって琢磨の実家か、安いホテル一拍くらいならお金も出るだろうから、その前か後に茜との対面、及び琢磨の墓参り。

 ちなみに、今日は十九日。
 そう。二日後がしおりのリミットだ。

 そんな今日の夕食時は、事情を知っている筈の、しおりの母としばしのお話。
 どこで最期を迎えるか、というのは、ことはっきりとしたリミットがあるしおりに於いては、意味のある、とても重要な話なのだ。
 偽母に言った最初で最後の我儘は、一番自信のある手料理を食べたいという些細な願い。

 これぞ母の食事だ、と思えるものを作ってくれというものだった。
 どちらともなく、どちらともが、そわそわと落ち着かない空気の中、時間を置いて並べられたのは、煮込みハンバーグと味噌汁、簡単な和え物だった。

 美味しそう。

 そう零した汐里に渚は、私は娘も息子も産んではいないから、何が本当かは分からないけどね、と苦く笑った。
 しかしこれも、中学の卒業や高校合格、及び卒業、そんな大事の折には、決まって出していた組み合わせ。
 本当が何かは確かに曖昧で不確定だが、なるほどこれは、この家庭における《母の味》と言って相違ないものだ。

「いただきます」

 二人揃って両手を合わせる。
 汐里はそのまま箸を、しかし渚は、味や反応が気になって、行き場のない両の手を再び膝へと置いた。
 これまでのここでの生活を思い出して、しおりは心の中で礼を言う。

 箸を刺して開いたハンバーグは、程よい弾力に次いでほっくら柔らかな中身、加えてつい涎が口内に溜まってしまうような肉汁と香りで以って、まずは食欲を増進させた。
 偽物で、ただ仕事だからと作ったものだ、とは考えにくくなる手の込みよう。
 上辺だけで汐里を見て来たのではないと、今になってようやくはっきりと分かった。

 一口大に切ったそれを口へ運ぶと、思わず頬が緩むくらいの美味さが広がった。
 強く味覚に作用する分かり易い味は、簡単に汐里の満足感を満たす。

「美味しい…」

「良かったわ、本当に…」

 そう零す渚の目元には、薄っすらと涙の色が見えた。
 はっきりと視認したそれは視なかったフリをして、汐里は二口目を口に運ぶ。
 味噌汁も和え物も、どれも丁度汐里が好きで食べやすい濃さの味付け。

 それもまた渚の優しさだと、偽りの本当を感じさせる。
 そうして食事を続けていると。
 出て来る話題はやはり、目先に迫った刻限のことだ。

「ちょっと前にも言ったけど……私、最期の日にはちょっと出かけてるから。住所は後でちゃんと教えるけど、宝石化した私の身柄は、その日が終わる頃にそこへ行って引き取って。後のことは、全部政府の人に任せるから。研究でも何でも、全部了承してるから」

「――は、汐里さんにとって必要なこと?」

「うん。渚さんには悪いけど、私はそこに行かなきゃいけないの。時間もかかるから、最期はそこで迎えることになると思うから」

 はっきりとそう言われた渚は、辛うじて堪えていた涙をついぞ流し始めた。
 それが何を意味するか。
 今の汐里には、痛い程によく分かってしまう。

 だから。
 だからこそ。

 今言わないと、このまま言えないままで終わってしまう。
 直感でも何でもない。
 それが、事実として決まっている未来であるからだ。

「私――最初はね、貴女のことが嫌いだった。血の繋がりはないし、仕事で来ただけのニセモノだって、ずっと思ってた。大嫌いだった」

 渚は黙って頷いた。
 汐里は、それに薄く笑って続ける。

「発端はそうだったからだと思う。来た当初は、きっと本当に偽物だったんだよ。でも――」

 整理がつかないままに零れる言葉は、紛れもなく汐里の本音だ。

「でも――今はね、本当のお母さんになった。ううん、なってた。ずっと一緒にいたら、いたからこそ、自然といつの間にか。血の繋がりも何も無いけど、私を産んでくれた訳でもないけど、でも……でも、私がこの家に帰って来た時、おかえりなさいって言ってくれるのは、唯一渚さんしかいなかったから。本当なら一人だった心の隙間――完全に埋まってたかどうかは分からないけど、少なくとも、渚さんの存在は私の中にあった。これだけは確かだよ。だから、ありがとう。お母さんが渚さんで良かった。それから――ありがとう」

 淡々と。
 けれども、感情的に。

 泣いてしまったら、きっと言葉にならなくなってしまうから。
 心を込めた言葉の全て、相手にそのまま届いたかどうかは、誰の知るところでもない。

 けれど。

「私……私、ちゃんとあなたのお母さんをやれてたのね……良かった。良かったわ、本当に」

 溢れ、流れる涙の雨。
 それが偽物でないのは、つまりはそういうことだ。
 まだ途中の食事を中断して、初めて本音でぶつかって。

 最後に力強く交わした抱擁は、確かな親子の絆を孕んだ、何より尊い温かみに満ちたものであった。

 汐里の言う『ありがとう』。

 それは渚も同じことだった。
 最初は他人だった。ただ仕事で頼まれたことだからと請け負っていた。 
 だが――汐里の母になろうと足掻いて足掻いて、必死になって足掻いた末の今だ。
 間違いではなかった。正しいかどうか、ちゃんとは分からないが、少なくとも間違いではなかった筈だ。

 それを知られただけでも、この二十年に満たない付き合いも無駄ではなかったと、そう実感させる。

「ありがとう、汐里さん。私、ちょっとだけ報われた気がするわ」