あのとき彼が見せた笑みを、十織は鮮明に覚えている。
安心したような、悲しげな、それでいてどこかたくましいような、なんとも複雑で、少しへたくそな笑みだった。
唯一限りなく確かに近いのは、あの笑みが獣の――ましてや悪魔に憑かれたそれのものではないということだった。
下谷と名を呼ぶ隣の席の男子の声で、十織ははっとした。
「大丈夫?」
「ああ、うん。少しぼうっとしただけ」
「ほう……。糖分は摂った?」
「蜂蜜バナナトーストでね」
「おお、そりゃあ充分だ」
「さすが、医者を目指してるだけはあるね。思考回路が診察じみてる」
十織が笑うと、男子生徒は「えっ」と声を発した。
「おれ、下谷に医者志望とか言ったっけ?」
「いいや、言ってないよ」
十織は小さく笑い、右手で右目を覆って見せた。
「ただほら、おれって天才だからさ」
「そりゃあすごいや。下谷ってたまに、本当に特殊な能力でも持ってるんじゃないかって思うような言動するよな」
「それが天才ってものさ」
「なんかもう、普通の人が言ってたら気味が悪いけど、下谷じゃあ本当にそういう人のように思えちゃうから不思議だよ」
「まさか。おれは至極平均的な人間だよ。今この瞬間、この世に超能力者がいる可能性は否定しないけどね」
「はいはい。『可能性は無限』、ね。本当に好きだよな、可能性」
「無限ほどおれを興奮させる言葉はないよ」
「変わった人だね。まあ、そういうところ、おれは嫌いじゃないけどな。それくらい能天気な人がそばにいると、悩みがなくなる」
十織は「おう」と笑った。
「それはなによりだ。必要なときに声を掛けてくれればいい」
「そうするよ」と笑う男子生徒の雰囲気に、十織は幸福に似たものを感じた。
同級生とこれほど長く話したのは久しぶりだった。



