透明な海



彼と言葉を交わしたのは、放課後、忘れ物を取りに戻ったときだった。

踊り場を歩いていたところ、階段を下りてきた彼と軽くぶつかったのだ。

「すみません」と言って、「別に」と静かに返されたのを覚えている。


後日の昼休み、彼と何度目かに廊下で会った。

「お前、結構うろちょろしてんだな」と相手から声を掛けてきた。

「食後の運動です」と十織は肩をすくめて苦笑した。


お前、知ってるか?――。少しの静寂のあと、先輩は言った。

「この学校の都市伝説」

背筋に嫌なものが走った。反射的に肩をすくめる。

「……それ、怖い話ですか?」

「怖い話だ」

「ええ……」

一度足元に視線を逃がして、十織はすぐに視線を戻した。先輩は微かに口角を上げる。

「聞いたことあんだろ、悪魔の獣って」

「ええ、まあ……」

「普段は大きな問題を起こすわけでもない、成績優秀な至って普通なやつ。しかしそいつは、なんの前触れもなく、魔手に突き動かされたように豹変する」

その様は多くの人を恐怖させた、と彼は囁くように言う。

「魔手に捕らわれたそいつは己を制御できなくなり、威圧的な態度を取り、時には激しい暴力を振るう」

「……はい」

「その『悪魔の獣』の正体、知ってるか?」

十織はかぶりを振った。

「いいえ」

「おれだ」

声が返ってきたのはすぐだった。

「……どうして、そんなことするんですか?」

「これは警告だ。おれに近づくな、休み時間にうろちょろすんな」

「先輩は、どうしてそんなことをするんですか?」

「話聞いてるか?」

「聞いてます。そのための質問です」

「……馬鹿は一遍死なねえと治らねえって言うだろ。馬鹿は自分に宿る馬鹿に抗えねえんだよ」

先輩は静かに言葉を並べた。