『顔を立てると思って、頼むよ。相手は会長のお孫さんだ。それを、顔も見ずに断るというのは失礼にあたる。一度会うだけで構わないんだ』

去年、専務に頭を下げられたのも似たような事情でだった。

瀬良は目を伏せ、その先にあるグラスを睨むようにして話す。

「別に、千絵を軽く見てたんじゃない。バレたらまずいことになるのもわかってた。でも、その時は、事務所のこととかそれ以上色々考えるのも面倒になって……それで、〝まぁ、いっか〟って。俺と千絵は幼馴染でずっと一緒にいたから、まさか千絵が離れていくなんて……想像もしてなかった。俺と千絵の関係が変わるなんて、思わなかった」

瀬良は『まぁ、いっか』と話したが、『もう、いいか』という諦めの言葉の方がその時の気持ちに近いのではないだろうか。

瀬良の話はわからないではなかった。
立場にモノを言わせるタイプの人間は一定数どこにでもいる。
そんな人間にターゲットにされた場合、とてつもなく面倒なことになるのは容易に想像がつく。

今でこそ、様々なハラスメントがあてはめられ会社が社員を守ってくれるようにはなったが、それでもすり抜けてしまう案件が少なくはないことも知っている。

白石から聞いた話だと、確か瀬良が浮気をしたのは高校生の頃。
同級生がただ学生生活を楽しんでいればよかった頃、瀬良はもう大人のなかでひとり仕事をしていた。

その中で、立場だとか面倒なことも学んだ。そして、大手出版社の娘の誘いを無碍にしたとき、その子の怒りの矛先が自分以外にも向けられることをわかっていた。

事務所やマネージャー、周りの人間にもこの先不利に働く可能性を考え、だからこそ瀬良は、その子の誘いに乗ったんだろう。
わからなくはない話だ。