車椅子を押す母が、あたしの頭をそっと撫でた。
「たくさん心配したわ。本当に、これ以上ないくらい心配した。二度とこんな無茶はしないでちょうだい」
「はい……」

「今、まずはアイトくんの話ね。アイトくんの遺伝子変異の治療は、つい先月、完了したの。あとは、脳への刺激が加わることで、自然と目を覚ますはず。当初の予定では、目覚めは、AIの学習が完了する来年三月ごろと見られていた」

「来年の三月? だけど、アイトはもう十分に人間らしくて、賢くて優しくて、笑ったり音楽を聴いたりして、すごく自然で」
「それはマドカがアイトくんを導いてくれたからよ。マドカがアイトくんの目的を手助けして、アイトくんの脳に最高の刺激を与えてくれた。その結果を、早くマドカに教えたかったの」

 車椅子が止まった。病室の前だった。
 あたしは、ドアのそばに掛けられた表札を見上げた。
「春久逢人さま……アイトが、本当に、ここにいるの?」

 うなずいた母がドアをノックして、ゆっくりとスライドさせた。
「失礼します。娘が目を覚ましたので」

 ぱっと立ち上がって迎えてくれた男の人に、あたしは息を呑んだ。
 きれいな顔立ちの男の人だった。両親くらいの年齢だろうけど、でも、間違いなくアイトに似ている。

「きみがマドカさん? よかった。本当に、目を覚ましてくれてよかった」
 声もだ。アイトの声と似ている。

 母が彼にあたしを紹介した。
「わたしの同僚の、春久先生。アイトくんのおとうさんよ」

 やっぱりそうだ。だから、姿も声も、アイトとこんなに似ているんだ。
 でも、じゃあ、アイトのアバタの声は本物だったってこと? 人間のアイトは眠っているのに、どうして?

 父が、いたずらっぽい笑い方で、あたしの顔をのぞき込んだ。
「春久先生とアイトくんが似てて、びっくりしただろう?」
「う、うん」

「アイトくんのアバタは、細心の注意を払って、丁寧に身体性を再現したんだ。姿はもちろん、声もね。声帯の長さや形と春久先生の声から推測して、アイトくんの声もきちんと再現した」

「じゃあ、アイトは本当に、あたしが知ってるアイトなの?」
「もちろん。まあ、現実のアイトくんは、まだきちんと声が出せるほどの筋肉ができていないけどね。つい二日前に目を覚ましたばかりだから」

 春久先生が、ベッドに半分引かれていたカーテンを開けた。あたしは思わず車椅子から立ち上がった。いや、立ち上がろうとして、前のめりに倒れそうになった。

「危ないわね。急に動いちゃダメよ」
 母があたしを支えてくれた。あたしは母に体を預けながら、どうにか足を踏み出した。

 あたしより先に、ニーナが、ふわりとベッドのほうへ飛んでいった。春久先生が一瞬だけこわばった顔をして、でも、すぐに柔らかく微笑んだ。
「アイトが一生懸命、伝えてくれたとおりの姿だ。かわいらしい色をしている」

 ほんの少し起こした角度のベッドに、ニーナは、ぽすんと突撃した。ニーナに照らされて、ベッドの真ん中の彼の顔が、淡いピンク色に映えた。

「アイト……!」

 真っ白な肌の、きれいな顔立ちの男の子。目の形と唇の形が、左右でわずかにアンバランスだ。頬に影を落とすほど長いまつげの下、きらきらと光を映し込む目が、あたしに焦点を結んでいる。
 アイトが、ゆっくりとまばたきをした。まなざしが動いて、ニーナをとらえる。ニーナがアイトの頬にすり寄った。アイトは目を細めた。笑ったんだ。

「ニーナに触れてみたいって、ずっと言ってくれてたの。現実でしか会えないニーナに、触れてみたいって」

 アイトの目が、また、あたしを見つめた。あたしの声、ちゃんと聞こえているんだ。もどかしそうに、ゆっくりゆっくり、アイトの唇が動く。

 マ・ド・カ。
 吐息が、そよ風みたいにささやいた。
 マ・ド・カ。

 奇跡に、それはとてもよく似た光景。アイトが現実にいて、だからニーナに触れることができて、あたしの名前を呼んでいる。少しずつ強くなる声で。

「マ・ド・カ」

 ねえ、そのささやき声ひとつで、あたしは今、心の底から思ったんだ。
 この世に生まれてきてよかった。あたしという人間として生きていてよかった。あたしには、生まれた意味も生きる意味も、ちゃんとあったんだ。

 アイト。
 あたしはきみに出会えて、よかった。生まれてくれて、生きていてくれて、本当にありがとう。