バタンッ!
 背後で、ものすごい音がした。ドアを開ける音だ。

「マドカ! ここで何やってるの!」
 母の怒鳴り声が、あたしの背中を打ち据えた。

 しまった、と思ったけれど、もう遅い。母がいつの間にか帰ってきていたんだ。計算室に飛び込んできた母が、あたしの腕をつかむ。
 あたしの体はエアコンの風で冷えていて、母の手は生ぬるかった。あたしは、ぞっと鳥肌が立った。

「離してよ!」
 触れられるのは、嫌いだ。たとえ相手が親であっても。

 母は聞き入れなかった。あたしの腕をつかんだまま顔を近付けて、あたしをにらんでくる。あたしは母と目を合わせない。
 怖い。

「話し声がすると思って来てみれば、何やってるの! おとうさんの仕事のものに勝手にさわるなんて。未完成のはずなのに……こんな、勝手な……どうして、どうやって動かしたの!」

 母のきつい視線が、あたしとアイトの間を行ったり来たりしている。目を合わせないまま、あたしはそれを感じている。あたしの腕を握る母の手は、ぶるぶる震えながらも、力が強い。
 つかまれた腕が痛い。でも、もっと別の痛みのほうが強い。

「邪魔しないで。アイトのこと、ただのモノみたいな言い方、しないでよ」
 アイトは、単なるプログラムなんかじゃない。未完成とか動かすとか、アイトとしゃべったこともないくせに、イヤな言い方しないで。

「マドカ、これはどういう状況ですか?」
 柔らかい性質の、ちゃんと抑揚のある口調で、アイトがあたしを呼んだ。

 母の手が、びくっとした。あたしは上目づかいに、あたしより背の高い母を見る。
 崩れかけた化粧。ファンデを巻き込んでよじれた、目元のしわ。この人、こんなに老けてたっけ?

 ぱしっ、と音がした。あたしの腕から母の手が離れた。赤くちかちか光るニーナが、母の手首に勢いよく体当たりしたんだ。
 母が、驚いたような目をして、自分の手を見た。ニーナを見て、あたしを見た。それからまた、きつい表情と声に戻った。

「マドカ、あなた、親に向かって何するの!」
「知らないよ。ニーナがやったんだもん」
「ニーナはあなたでしょう!」
「知らないってば。関係ないでしょ」

 開けっ放しのドアの向こうから、足音が聞こえてきた。ああ、面倒だ。父も帰ってきていたんだ。

「とりあえず、アイト、今日はバイバイ」
 あたしは早口で言った。アイトは小首をかしげた。
「AITOのインターフェイスはスリープ状態に入るほうがいいんですか?」
「そうして。お願い」
「わかりました。じゃあ、また」

 ディスプレイから、アイトの黒い部屋の映像が消えた。
 明かりを点けていない計算室が、一段と暗くなった。