流転王女と放浪皇子 聖女エミリアの物語

 あの頃はシュライファーに甘えてばかりいて、わがまま放題で何もできない娘だった。

 ナイトの駒を投げつけたりするような子供っぽさはつい最近まで変わらなかった。

 今の自分ならそんな癇癪は起こさないだろう。

 シュライファーに成長した自分を見せてやりたい。

 今はどうしているのだろうか。

 ナヴェル伯父の領地からもっと遠くに逃げのびただろうか。

 かつて彼が熱望していたように東洋の都に旅立っていてほしいものだ。

 どこでもいいから無事にいてくれればいいのだが。

 自分はこんな異国の地で祈ることしかできない。

 そんな自分に比べればマーシャはとても立派だ。

 この歳でもうすでに様々な仕事を任されている。

「お仕事は慣れましたか?」

「はい、なんとか」

「これからもよろしくお願いしますね、マーシャ」

「おそれ多いことでございます」

 丁寧な言葉ながら弾んだ気持ちのこもった返事だった。

 エミリアと目が合うと、耳まで真っ赤にしながらマーシャは浴室を辞した。

 薔薇の香りに包まれて少しずつ気分がほぐれていく。

 今宵の仮面舞踏会への前向きな気持ちもわいてきた。

 気後れすることはない。

 あの困難な旅を乗り越えられたのだ。

 自信を持って新しい世界に飛び込めばよいのだ。

 一人で薔薇の湯につかりながらエミリアは自分に言い聞かせていた。

 日が落ちた頃、再び呼び出しがあり、エミリアは夜会服をまとって部屋を出た。

 仮面舞踏会とはいっても、仮装ではないので顔半分を隠すヴェネチアンマスクをつけるだけだった。

 ただ、それだと目の横の痣は隠せても、残念ながら口元の傷を隠すことはできない。

 マーシャや他の女官達ができる限りの化粧を施してくれたが、完全に消すことは不可能だった。

 宮殿の廊下を歩いていると、ナポレモの祝賀会のことがよみがえってきた。

 ついこの間のことなのに、遠くへ来てしまった自分とまったく関わりのない記憶だったかのように感じられてしまう。

 女官から儀典官に取り次がれ、大ホールの扉前に立つ。

 心の準備が整う前に扉が開かれてしまった。

 仮面舞踏会のしきたりで紹介も名乗りもない。

 エミリアは一人の女として貴族達の好奇な視線の中に放り出された。

 大ホールはこれまで見たことのない空間であった。

 ナポレモの広間が小部屋に感じられるほどだ。

 正面は天井まで窓が広がり、両側は総鏡張りだ。

 蝋燭の炎が何重にも映りこんで遠近感が幻惑される。

 上下左右と前後の距離感が失われ、体が浮き上がるような感覚に襲われる。

 軽いめまいを覚えてエミリアは人の輪の中に立ち尽くしてしまった。