執事は表情を変えることなく王女に告げた。
「触れるというのはそのようなことではございません。もっとその……」
「もっと?」
口ごもるシュライファーをエミリアは見つめた。
視線をそらしながら執事がつぶやく。
「今宵、家庭教師の先生をお呼びしております」
「あなた以外の新しい先生?」
「はい。すべてをその先生にお任せになってください」
シュライファーにしては曖昧な態度であった。
この男は常に正確に仕事をこなしてきた。
エミリアも絶対の信頼を置いている。
「ねえ、シュライファー、一局相手をお願い」
エミリアは暖炉脇のサイドテーブルの上にあるチェス盤に歩み寄った。
チェスはこの時代の貴族の子女のたしなみとして必須の娯楽である。
女性が殿方との交際において教養を示す手段として、音楽や舞踏と共に重要視されているものであった。
「では、一局だけ」
エミリアにチェスの手ほどきをしたのはシュライファーであった。
もともとは兄たちの対局を眺めていたエミリアが自分もやってみたいと言い出したことがきっかけであった。
しかし、兄たちに勝てずに泣いてばかりいるのを見かねて母君から依頼されたのであった。
エミリアがセイウチの牙で作られた白のポーンを進めた。
シュライファーも紫檀の黒駒を合わせる。
かつて兄上達が遊んでいたチェス盤は百年以上前の先祖伝来の品だ。
ところどころ痛んではいるが、思い出にあふれ、手になじむ駒の感触が心地よい。
二十手を指したところで形勢はシュライファーに傾き、それから数手であっさりと勝負がついた。
「チェックメイトでございます」
「ああ、やっぱりあなたには勝てないわね」
「今宵はあっさりと負けをお認めになるのでございますね」
幼い頃のエミリアは負けると癇癪を起こして駒を投げることもあった。
シュライファーの目の上に紫檀のナイトが当たって血が出たこともあった。
さすがにその時はエミリアは泣いて謝っていたし、それ以来、自制することを学んできていた。
「そんなこともありましたわね」
シュライファーを見つめる王女のまなざしはいつのまにか大人の女性のものになっていた。
「すっかり傷も消えましたがね」
「わたくし、シュライファーに甘えていたのね」
「お忙しい父君の代わりに頼ってくださっていたのでしょう。大変光栄に存じます」
不意に目頭が熱くなる。
シュライファーは動揺した。
感情の乱れなど、常に排除しながら職務につとめてきた自分にはふさわしくない感傷であった。
表情を読み取られないように暖炉に薪を追加してから、シュライファーは扉の前で王女に頭を下げた。
「ではお嬢様、わたくしはまだ明日の祝宴の準備がございますので、失礼いたします」
「そう、ご苦労様」
「触れるというのはそのようなことではございません。もっとその……」
「もっと?」
口ごもるシュライファーをエミリアは見つめた。
視線をそらしながら執事がつぶやく。
「今宵、家庭教師の先生をお呼びしております」
「あなた以外の新しい先生?」
「はい。すべてをその先生にお任せになってください」
シュライファーにしては曖昧な態度であった。
この男は常に正確に仕事をこなしてきた。
エミリアも絶対の信頼を置いている。
「ねえ、シュライファー、一局相手をお願い」
エミリアは暖炉脇のサイドテーブルの上にあるチェス盤に歩み寄った。
チェスはこの時代の貴族の子女のたしなみとして必須の娯楽である。
女性が殿方との交際において教養を示す手段として、音楽や舞踏と共に重要視されているものであった。
「では、一局だけ」
エミリアにチェスの手ほどきをしたのはシュライファーであった。
もともとは兄たちの対局を眺めていたエミリアが自分もやってみたいと言い出したことがきっかけであった。
しかし、兄たちに勝てずに泣いてばかりいるのを見かねて母君から依頼されたのであった。
エミリアがセイウチの牙で作られた白のポーンを進めた。
シュライファーも紫檀の黒駒を合わせる。
かつて兄上達が遊んでいたチェス盤は百年以上前の先祖伝来の品だ。
ところどころ痛んではいるが、思い出にあふれ、手になじむ駒の感触が心地よい。
二十手を指したところで形勢はシュライファーに傾き、それから数手であっさりと勝負がついた。
「チェックメイトでございます」
「ああ、やっぱりあなたには勝てないわね」
「今宵はあっさりと負けをお認めになるのでございますね」
幼い頃のエミリアは負けると癇癪を起こして駒を投げることもあった。
シュライファーの目の上に紫檀のナイトが当たって血が出たこともあった。
さすがにその時はエミリアは泣いて謝っていたし、それ以来、自制することを学んできていた。
「そんなこともありましたわね」
シュライファーを見つめる王女のまなざしはいつのまにか大人の女性のものになっていた。
「すっかり傷も消えましたがね」
「わたくし、シュライファーに甘えていたのね」
「お忙しい父君の代わりに頼ってくださっていたのでしょう。大変光栄に存じます」
不意に目頭が熱くなる。
シュライファーは動揺した。
感情の乱れなど、常に排除しながら職務につとめてきた自分にはふさわしくない感傷であった。
表情を読み取られないように暖炉に薪を追加してから、シュライファーは扉の前で王女に頭を下げた。
「ではお嬢様、わたくしはまだ明日の祝宴の準備がございますので、失礼いたします」
「そう、ご苦労様」


