流転王女と放浪皇子 聖女エミリアの物語

 翌朝まだ暗いうちにマーシャが迎えに来たときには、エミリアは一人で身支度を整えて待ちかまえていた。

「姫様、もうお支度が……」

 王女の意気込みに観念したのか、マーシャが燭台を持って先に北西塔の石段を下りていく。

 エミリアも自分の燭台を持ってついていった。

 塔の地下は円柱の並ぶ空間になっていて、壁からしみ出した水が石畳を濡らし、鈍く輝いていた。

 カビと埃の臭いで息苦しい。

 一定の間隔で蝋燭が灯されていて歩くのに支障はないが、小さな炎が円柱の影を揺らすと、そこに何かいるような気がして怖じ気づいてしまう。

 だが幽霊どころか鼠一匹おらず、地下回廊に響くのは滴の垂れる音と自分たちの足音だけだった。

 足音と水滴の音が交互にリズムを刻んでいく。

 その音に誘い込まれるように奥へ奥へと二人は歩んでいった。

「冷えますわね」

「姫様は闇が怖くはないのですか」

 震える声でマーシャがつぶやく。

「ここは安全ですもの。命を奪いに来る者がいないのですから」

 旅の途中に何度も襲われたことを考えれば、何もない宮殿はたとえ幽霊がいたとしてもおそろしくはない。

 むしろ、いるのなら見てみたいくらいだ。

 前を歩くマーシャが小さく悲鳴を上げた。

「どうしました?」

「すみません。蜘蛛の巣が」

 エミリアはマーシャの頭から蜘蛛の巣を払ってやると、手を握って並んで歩いてやった。

「姫様、もったいのうございます」

 遠慮して引っ込めようとする少女にエミリアは優しく語りかけた。

「いいのですよ。わたくしがお願いしたのですから。わたくしもこうしている方が安心ですし。それに、ほら、わたくしも手に汗をかいているでしょう」

 実際はマーシャの方が冷や汗まみれの手をしていたが、握ってしまえばどちらなのかは分からなくなる。

 燭台の光の中に見える少女のぎこちない笑顔に向けてエミリアも精一杯微笑んで見せた。