その日、俺はいつものように仕事を終え、海愛ちゃんが現在住んでいるアパートに顔を出した。

 仕事帰りにこうして彼女の家に寄る行動は櫻井の遺言が関係している。その事実を彼女は知らない。俺は海愛ちゃんに嘘をついている。

 嘘、と一括りにしてみても、その種類は膨大だ。他人のためにつく嘘は、時としてその人を救うことも、守ることもある。俺が櫻井から言い渡された遺言は、きっと後者だ。

 アパートに到着し、部屋に入ると、食欲をそそる香りが鼻孔を刺激した。海愛ちゃんはこうして、仕事帰りの俺に夕食を御馳ごち走そうしてくれる。



 そんな彼女の優しさに大きな幸福を感じながら、俺は部屋の中へ足を踏み入れた。

 今日の夕食は肉じゃが。ほうれん草のおひたし。なめこの味噌汁。優には薄味にした離乳食が用意されていた。

 俺は最初に櫻井の遺影に手を合わせる。その後はいつものように食卓についた。



 海愛ちゃんが俺のために夕食を作ってくれるようになったのには理由がある。俺が彼女のアパートに通い始めたばかりの頃、料理の苦手な俺の主食はコンビニ弁当だった。俺の荒れきっていた食生活を聞いた彼女は「いつも優の面倒を見てくれるお礼」と、夕食を御馳走してくれるようになった。

 そんな毎日を過ごしていたある日、俺は胸に秘めていた想いを海愛ちゃんへと打ち明けた。





「俺と、一緒になってくれないか」





 俺の言葉に彼女は驚き、まじまじと俺の顔を見つめた。





「……え?」





「俺と、結婚してほしい。俺がこれから君と優を守っていきたいんだ」





 真剣な表情で語る俺に、彼女は視線を逸らしてしまった。海愛ちゃんが唇を噛み締め、左手の薬指にはめられた指輪に触れるのを、俺は見逃さなかった。