二人の声は小さすぎて、ここからは何を言い合っているのかがよく分からない。

 淸水さんの声は泣いているようで、震えているようで、必死に何かを訴えているけど、上川先輩の方は凄く落ち着いていて、彼女の話を全部聞いてあげているようだ。

 なにコレ、喧嘩? もめ事? 相談? それとも、全く違う話し?

 二人が話してるのは分かるけど、その会話の内容までは聞き取れない微妙な距離で、もう少しここから身を乗り出せば、ちゃんと聞こえるかもしれない、

 だけど、これ以上木の陰から出ると、向こうにもこっちがバレちゃうし……、私は可能な限り、体を伸ばした。

 その時、じゃりっという土を踏む音が後ろから聞こえて、視界の端に黒い影が飛び込んできた。私がパッと顔を上げると、それは市ノ瀬くんだった。

 彼はまっすぐに、私の視線の先にあるものを追っていた。

 上川先輩と淸水さんが、とても親密で、だけど濃厚な、二人だけの秘めた会話を続けている、そう、これは、他の人間が立ち聞きしていい内容じゃない。

 市ノ瀬くんと目があった。彼はすぐに、視線を下に落とす。

 私は、もう一度あの二人を振り返った。

 恥ずかしいこと、いけないことをしているのは、自分でも分かってる、だけど私はこのままじゃ、ここから動けない、あの二人の秘密を知ってしまった以上、その謎を解明しないことには、ここから動けない。

 市ノ瀬くんの手が伸びて、私の制服の袖を引いた。どれだけ抵抗しても、振り払っても、彼はその袖を引くことをやめない。

 ここで騒いだり、声を出すわけにはいかないのに、彼は私を、そこから引きずりだした。

 市ノ瀬くんに引っ張られて、私は木の陰から連れ出される。

 充分に離れたところで、私は彼の手を振り払おうと、もう一度強く腕を振った。それでも袖をつかむ彼の手は離れなくて、私はされるがままに引っ張られていく。

「放して!」

 ようやく声を出せるようになった場所で、彼の手が離れた。

「来いよ」

 どうして今ここで、この人に命令されないといけないのか、意味が分からない。

 だけど、他にどうしようもなくて、私は彼の後についていく。

 何やってんだろ、何してるんだろ、気がつけば自分で自分が情けなくて、勝手に涙がでてくる。

 ごまかしたいけど、それは、ごまかせる範囲をすでに超えていて、私は鼻水をすすりながら歩いている。

 彼は立ち止まって、ふり向いた。

「泣くなよ」

「泣いてない」

 彼は校門のすぐ手前の、縁石の上に腰を下ろした。

「とりあえず座ろうぜ」

 すっごくイライラして、腹が立って、ムカついてて、なんでこんなところにいなきゃいけないのかが分からないけど、ここで逃げたら何もかもから、全部逃げ出してしまうような気がして、私は彼の隣にしゃがみ込んだ。

 そしたら、他に何にもすることがなくなって、生理現象で涙が出てくる。

 彼はじっと前をむいたままで、そんな私に呆れたように、扱いにくそうに、だけど結局どうすることも出来ずに、もじもじとしている。

 何もすることがないなら、できないのなら、あそこから連れ出さないでほしかった。

「なんで泣いてんの」

「知らない」

 他の人に見られたくなくて、私は膝をかかえてうずくまる。その隣で、彼の深いため息が聞こえた。

 恥ずかしい、あんなとこ、見られたくなかった。だけど、あのままあそこにいて、イヤな子になるより、連れ出してもらった方がよかった。

 だから、ありがとう。恥ずかしさと、感謝と大嫌いが、ぐるぐると混ざり合う。

「なんかさ、聞きたいこと、ある?」

 しばらく無言が続いた後で、彼の口から出てきた言葉がそれだった。

 聞きたいこと? 市ノ瀬くんに? そんなこと、あるわけないじゃない、それとも、あの二人のことで、自分の知ってることがあったら、教えてやるってこと?

「……身長と体重」

「誰の?」

「誰でもいい」

「……、173㎝、58㎏」

「誕生日」

「11月10日」

「血液型」

「O型」

「……」

 自分がなぜ今、ここでこうしているのかが分からない、だけど、彼には感謝もしているし、ムカついてもいる。

 何かもっと、大事なことを話さないといけないような気もするけど、それは今じゃない、とも思う。

「落ち着いた?」

 その言葉に、私は返事をしなかった。

 落ち着いてなんていないけど、落ち着いている。

「余計な話し、聞く?」

「聞かない」

 即答したら、彼は笑った。

「じゃあ、もういいや、お前、結構元気だな」

 私は、膝の間に埋めていた顔をパッとあげた。彼と目が合う。

「ありがとう」

 言っておかなければならない言葉だったので、今ここで言っておく、この機会を逃したら、もう二度と、きっと一生、このお礼は言えないから。

 彼はそれに驚いたみたいで、ちょっと小さくなってから、ぼそりとつぶやいた。

「どういたしまして」

 それで、終わりにしよう、余計な話しは、しなくていい。

「……、俺はさ……」

 彼がそう言ったのと、私が立ち上がったのが、完璧に同じタイミングだった。

「なに?」

「いや、何でもない」

 彼も立ち上がって、おしりの埃を払う。

「帰ろっか」

「うん」

 立ち上がった私たちを、後ろから来た上川先輩が一人で追い越していった。

 何も挨拶されなかったから、こっちには気づいていなかったのかもしれない、そのまま市ノ瀬くんと並んで歩き出す。

 駅に着くまで、私と彼は一言も言葉を交わさず、なにも言わないまま、黙って別れた。