「朋樹」

 先輩が僕を見つめる。僕も見つめ返した。目をそらしたら消えてしまう。目をそらしてはいけないんだ。

「私はおまえが好きだ」

「どうしても消えてしまうというのなら、僕も一緒に連れていってくれ」

 先輩は首を振る。

 僕は首を振らせないために先輩の頭を手ではさんだ。

「僕は先輩から好きという気持ちを教わった。先輩だって気持ちを教えることができるんだ。先輩だって人に感情を教えることができるんだ。先輩はもう幽霊なんかじゃないですよ」

「そう、だからこそ、私はもうおまえのそばにはいられないのだ。私の役割は終わったのだ」

「僕をこんな気持ちにさせておいて、先輩はいったいどこに行ってしまうと言うんですか」

「どこにも行かない。私はここにいる。ただ消えてしまうだけだ」

「ここにいるというのなら、消えなくたっていいじゃないか」

「明日になればすべて忘れてしまっているだろう」

 僕は忘れないよ。

「私は忘れられなければならない存在なんだ」

 僕は絶対に忘れないよ。

「だからこそ、今、礼を言っておく。ありがとう」

「消えないでよ。僕は離さないよ」

 はさんでいた僕の手をはずしながら先輩が静かに首を振った。

 北風が吹き抜ける。

 先輩の髪が舞い上がる。

 前髪をかき分けながら微笑む。

 どうして今そんな素敵な笑顔を僕に見せるのさ。

 忘れたくない。

 どうしても消えてしまうのか。

 僕は見たことのない笑顔を目に焼き付けた。

 それを失いたくなかった。

 その時、僕の心の中に、ポツリと一つの黒い穴が開いた。

 消えてしまうというのなら、なぜ戻ってきたりしたんだよ。

 僕をこんな辛い目にあわせるために戻ってなんかこなければ良かったのに。

 ほんの一瞬でもそんなことを考えたことを後悔した。

 穴が一気に崩れ落ちてすべてを飲み込んでいく。

「すまない朋樹。私はおまえに身代わり幽霊としての別れを告げるために戻ってきたんだ」

 僕の心を見透かしたように先輩は僕を見つめていた。

 その瞳からは輝きが失われていた。

「おまえの顔は冷たいな」

 先輩が僕の頬に触れた。

「ほら、私の手はあたたかいだろう」

 指先で僕の頬をなでる。

「私がマフラーの代わりにおまえを暖めてやろう」

 先輩は僕の首に腕を回して頬と頬をふれあわせた。

 ぬくもりに包まれて僕は涙を流していた。

「朋樹、ありがとう。これで最後だ」

 待ってくれ。

「こういうときはなんと言うんだったかな。ああ、そうだ……」

 先輩が僕の耳元にささやいた。

「さよなら」