「いるんだよ」

「え、何が?」と凛が驚いている。

「好きな人だよ。僕は一片先輩が好きなんだ」

 凛は当惑した表情を浮かべて僕の顔をのぞき込んだ。

「なにそれ、どうしていまさら嘘なんかつくの?」

 どういうことだ?

 嘘?

 凛、何を言ってるんだよ。

 先輩だよ。

 幽霊先輩だよ。

「嘘じゃないよ」

「朋樹が嘘をつけないのは知ってるよ。隠し事したってすぐばれるって知ってるよ。どうせつくならちゃんとばれない嘘ついてよ。なによ、全然いもしない人の名前、急に言われたって納得できるわけないじゃん」

「いもしない人って?」

 先輩がいない?

 何を言ってるんだよ、凛。

「凛、先輩のこと、分からないのか」

「先輩って、糸原高校でしょ? だから誰?」

 まさか。

 凛の記憶の中から先輩が消えたということは、身代わりとしての役割を終えつつあるということなのか。

 先輩は、消えてしまうのか?

 記憶から消えた人に無理に思い出させようとしてはいけないと言われていたことを思い出した。

 身代わり幽霊が災いを取り除いたのなら、それは凛にとって良いことのはずだ。

 高志とつきあうことが凛にとっての幸せなんだ。

 高志はいいやつだし、ちゃんと反省している。

 もう凛を怖がらせたり泣かせたりすることはないだろう。

 凛だって高志と一緒にいるときの方が楽しそうじゃないか。

 僕の一番大切な人が幸せになる。

 僕はそれを心から祝福している。

 それでいいんだ。

 ただ、それはつまり、もう一つ大事な存在を失うことを意味しているんだ。

 どうして今まで先輩のことを忘れそうになっていたんだろう。

 凛の記憶から消えるのは仕方がないとして、僕の記憶から消える必要はないじゃないか。

「ねえ、朋樹、大丈夫?」

 凛が心配そうに僕の顔をのぞき込んでいる。

 凛には思い出させてはいけない。

 僕は説明できないもどかしさに苦しんでいた。

「ちょっと昼ご飯を買ってから帰るよ」

 無理矢理話題を変えた。

「私も一緒に行こうか?」

「いや、いいよ」

「変だよ、朋樹」

 いつだって凛は優しい。

「ねえ、凛」

「何?」

「高志と楽しいか?」

「何よ、急に」

 凛は照れくさそうに僕から視線を逸らして、柔和な表情になってつぶやいた。

「あたし、高志のこと好きだよ」

「よかったね」

「ありがと」

 そう、それでいいんだ。

 僕は急がなければ。

「ごめん、ちょっと用があるから」

 僕は凛と別れて、歩行者用踏切を渡って若松神社へ急いだ。