君と笑顔の日

電話が鳴ったのは仕事が終わりに差し掛かる夕方だった。
暑い外とは違い、室内の冷房はひやりと寒さを感じる程で、少し効き過ぎの感がある。窓の外で蝉が鳴いている。まだまだ空は青く、ずいぶん陽が長くなった。雲がゆったり流れている。
室内に響く事務的な音。
キーボードを叩く音、電話対応、書類をめくる音。
ともすれば、一本の電話の音など日常の音にかき消される。いや、紛れてしまう。

その電話を取ったのは僕の上司で、内線で千夜ちゃんへと回された。上司の口ぶりや、電話のやり取りの中で察してしまう自分がいた。
自分の中にある感情が、周囲の音をかき消すようで耳が遠くなる。
僕のうるさい心臓が陽奈子に届けばいいのに。数分の1でも、僕の鼓動に重なればいいのに。
音が戻ってきたのは同僚が僕の腕を掴んだからだ。

「大石、大丈夫か?お前は、行かなくても良いのか?」

見ると千夜ちゃんは僕の動向を気にしているようだった。
僕の“事情”である彼女と、千夜ちゃんの“事情”である姉が同一人物と認識していない上司は僕らの様子を不思議な顔をしてみているが、仕事のできる上司は何かを察したようで「お前も帰っていいぞ」と言ってくれる。
僕は感謝を述べ、千夜ちゃんと連れ立って会社を出た。

逸る気持ちが足をもつれさせ、待つしかできない電車の中では唇を噛みしめる。道中は無言だった。
心身は疲労困憊のはずなのに、早く陽奈子に会いたい気持ちが僕を突き動かしていた。

病院は面会時間が終わる頃で人がちらほらといた。その人の波をかき分けて、エレベーターで陽奈子の病室へと向かう。到着した階のナースステーションの看護師さんはすでに顔見知りで、さっと同行してくれる。今にも勢いよく扉を開けんばかりで会社を飛び出したのに、その静かな扉を前に、僕は立ち竦んでしまう。
会いたいんだよ、陽奈子。君に。

ずっとそうもしていられないし、こうしている間にも残酷に陽奈子の命を時間が奪っていく。逡巡したのは多分、永遠の1秒。
扉にそっと手をかけて、開けた先にはお母さんと先に着いていたお父さんが、居た。

「千夜子、学くん……。ありがとう」

ピ、ピ、と刻む機械音をBGMにお母さんが声をかけてくれる。
病室に足を踏み入れると、目に映る、ようやく会えた陽奈子。

「なんだ?どうした?」

涙声でお父さんが伺うように陽奈子に顔を近づける。

「うん、うん、そうだね。きれい。見えた、よ。ひまわり、きれいだね。あおいはな、そら、みたいだね。……あ、りがと、だいすき」

最後に振り絞った声は、幸せな夢の中、伝えたかった本当の心。きっとそうだと信じている。

ふぅ、と、息を吐いて最期。
無情にも機械音が鳴り響く。それは先程までの心音を刻む音ではなく、ピーーー、と途切れることの無い警告音。
まざまざと現実を突きつける音。

「ヒナちゃんありがとう、大好きだよ」
「私達も。陽奈子のこと、大好きよ」
「陽奈子……、ありがとうな。生まれてきてくれて、ありがとう」

それぞれが呟く言葉に、生まれる愛情。

人は、最期の時にも耳は音を聴き取れる、ということを聞いたことがある。
僕は陽奈子に何を伝えてこれたのだろう。
病気が発覚してから、いつだって付きまとっていた疑念がある。

見舞うことも、心配をすることも、彼氏としての義務が僕を動かしていたのではないか?もしかすると、薄情な自分をごまかす為の偽善だったのではないか?

心の片隅に引け目があって、それでも陽奈子は多分、そんなことわかった上でいつだって「ありがとう」「お疲れ様」と言う。「ごめんね」と言ったのは、別れる気がないと言ったあの時くらいのもので、大丈夫、ありがとう、という。

「陽奈子、陽奈子。ありがとう。僕は、僕も。陽奈子のことが大好きだよ」

もがいていた、つきまとっていた疑念は真実の言葉に消えていく。
溢れ出たこの言葉こそ、本当の想いだ。
君に、届いていれば嬉しく思う。




看護師に呼び出された医師がやってきて、言葉を告げる。

「午後6時12分、ご臨終です」

医師が告げた臨終の言葉に、現実が一気に引き寄せられて事務的な作業や手続きに移っていく。
耳障りだった機械音は電源を消され静かになった。


芦原陽奈子、享年24歳。

僕の彼女は、この世を去った。