キャメルのコートは見たくない。


 今のわたしは、それだけで泣きそうになる。


 あのひとのくたくたのキャメルのコートを抱きしめたのは、つい四時間前。

会社への曲がり角の前で一度振り返って手を振って、それからなんでもないふりをして出社した。

あのひとに最後に会うために、めったに使わない有給を半日取ったから、昼の一時の出社だった。


 最後。ことばにするとずっしりと重いのに、最後のときはいつだってこんなにも呆気ない。


 歩道橋の階段の陰に隠れて、最後のキスをしたのは、つい四時間前。

あのひとが建物の外でわたしにキスをしたのは、あれが最初で最後だった。

そのあと手を恋人のようにつないで歩道橋を渡って、そこで別れた。

外で手をつないだのも、最初で最後。


 最初で、最後に、あのひとはわたしに消えない傷を残していった。


 恋人のように手なんて繋ぎたくなかった。

恋人のように別れのキスなんてしたくなかった。

だってわたしはいつだってそれを待っていたのに、あのひとはいつだってきっと気づいていたのに、してはくれなかった。

あのひとがわたしと手をつなぐのもキスをするのも、いつもわたしを抱くときだけだった。

わたしはあのひとと、いつだって、恋人になりたかったのに。


 最後にそんなことをされたら、余計に、思い出にするのが辛くなる。